八重の桜」カテゴリーアーカイブ

八重の桜登場人物の史実覚書。
※大河感想は通常の雑記扱いでこのカテゴリーから外します。

会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

鶴ヶ城天守閣 鶴ヶ城案内

鶴ヶ城天守閣

慶応4年(1868)8月23日明け方に新政府軍は戸ノ口原の会津軍を攻撃し、会津軍は防戦しきれずに後退。
新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下に進撃する折に、滝沢本陣の松平容保は馬に乗り出陣しようとするが家臣に諌められ、若松城下大手口の甲賀町郭門へ向かった。

北出丸側甲賀口方面 北出丸

▲甲賀口方面、手前に北出丸

城下北側の入口、蚕養(こがい)口の手前では国産奉行河原善左衛門率いる一隊が防戦するも河原隊長らの戦死により退却。新政府軍は甲賀町郭門に迫った。
郭門内で指揮をとっていた容保は、家老田中土佐・神保内蔵助に任せて帰城し、出迎えた白虎士中一番隊が防衛を命じられ郭門内東側の三宅宅に拠り応戦した。
間もなく東隣の六日町から新政府軍が進入して甲賀口が破られ、隊士達は土手沿いに退却。このうちの一団が愛宕山で自刃しようとした所を味方の兵に諌められて思いとどまり入城を目指した。
(戸ノ口原に参戦した白虎士中二番隊のうち十九名は飯盛山で自決する)

薩摩・長州・土佐兵は甲賀口から南方700mの鶴ヶ城北出丸に接近し砲撃を加えたが、城内からも城壁の銃眼から撃ち返して新政府軍の将兵達を死傷させた。
しかし新政府軍の急迫によって入城や避難できなかった、あるいは自らの意志でしなかった会津藩士の家族たちが自刃して果てた。(なよたけの碑に戦病者含めた230余名の氏名が刻まれている)

城内では容保・喜徳父子が黒鉄門(くろがねもん)内へ御座所を設えて指揮をとり、小室金吾左衛門を頭の兵を迎撃にあたらせ、更に山浦鉄四郎の一隊を共に西方へ出撃させた。天神橋の戦によって犠牲を出しながらもこの方面は9月まで会津側に確保される。

※この日の朝、山本八重(この時24歳)の家では寄宿の米沢藩士内藤新一郎が戦況を伝える為に米沢へ向かう。
母佐久と兄嫁うら達は近隣の村に避難し、八重は鳥羽・伏見の戦で戦死した弟三郎の形見を身に着けて、七連発元込めのスペンサー銃を背負い鶴ヶ城に籠城することを決めた。入城後に八重は高木時尾に断髪を頼む。

黒鉄門側 廊下橋

▲走長屋と黒鉄門、八重が入城の際に渡ったという廊下橋

25日早朝、猪苗代湖北西方面に出陣していた萱野権兵衛率いる隊が西部から入城を図るが、新政府軍の守備が固く留まる。越後方面から退いてきた旧幕郡の衝鋒隊と共に再度挑んで兵の一部が入城。※この時娘子軍が同行し中野竹子戦死
鶴ヶ城天守から南東1360mの小田山を新政府軍が占拠。

西出丸 西出丸2

▲西出丸

26日、日光方面の山川大蔵の部隊が彼岸獅子を先頭に立てて西追手門(西出丸から北側に出る搦手門)から入城。
新政府軍側は小田山にアームストロング砲一門を含む大砲を運び上げた佐賀藩が天守めがけて砲撃開始。三斗小屋の西軍は野際に到る。
27日会津藩大砲隊士の戸枝栄五郎・鯨岡平太郎・川崎尚之助らが鶴ヶ城南の豊岡神社から四斤山砲で小田山を砲撃。

鶴ヶ城から小田山方面 小田山からの鶴ヶ城

▲天守閣からの小田山方面と、小田山から肉眼視野に合わせて撮った鶴ヶ城

28日、日光口の芸州藩などの西軍が山王峠を越え、糸沢村に到る。
29日朝に糧道確保のため総督佐川官兵衛以下約1000名の兵が濃霧に紛れて城外へ出撃。新政府軍が駐屯する北西1.5kmの長命寺を目指す
芸州藩は糸沢より田島に進む。融通時寺町で戦闘。
30日に新政府軍は大内に宿陣。

9月1日三斗小屋の西軍は音金に達す。大内峠の戦。
2日関山の戦。八十里越の新政府軍は叶津に到着。
3日大内峠より栃沢にて激戦。新政府軍が再び関山を攻める。
4日、日光口から進撃してきた新政府軍の兵が鶴ヶ城西南3kmの飯寺(にいでら)に到着。
神保平八郎率いる青龍三番寄合組の防戦むなしく新政府軍は城下南端の住吉神社まで迫るが、河原町に本営を置いていた佐川官兵衛が砲兵隊を向かわせて撃退。
※この日、米沢藩が新政府に帰順し、新政府軍は小田付村に民政局を置く

5日早朝、高久(たかく)に着陣していた萱野権兵衛率いる会津軍が新政府軍に攻撃され北東6kmの塩川に退く。
6日越後口の西軍が坂下・塔寺・柳津に到る。
8日、塔寺方面から退却した会津軍、本木信吾の青龍隊と水戸兵や山本帯刀(たてわき)率いる長岡兵が共に飯寺の新政府軍を攻撃するも果たせず、濃霧で敵を誤認した長岡兵が捕えられ斬首された。
※この日、明治と改元
9日、佐川隊が田島陣屋を奪回する。

10日、越後口からの新政府軍が小荒井(現喜多方市西部)まで進み、西郷刑部隊や町野主水率いる朱雀四番士中隊は安勝寺に拠って防戦。後に雷鳴戦争と称されるほど銃声のみが激しい戦いであったという。塩川に退いた萱野隊も呼応し守備に就く。
11日未明に来襲した新政府軍の松代・岩国・越前兵を撃退するが、米沢藩が新政府に帰順したため背後を衝かれる危険性を避けて会津軍は鶴ヶ城南方の一ノ堰(いちのせき)へ向かう。

14日早朝に鶴ヶ城内へ総攻撃が決行された。小田山に据えたアームストロング砲、メリケンボート砲、従来の山砲等15門の大砲の砲撃を合図に、城の西北の諏訪神社付近で長州・大垣・土佐三藩による攻撃が行われた。
鶴ヶ城下では北西から南にかけての外郭の桂林寺町口・融通寺口・川原町口・花畑口・南町口を攻撃。
西出丸を守る郡上藩の凌霜隊や再編された白虎隊士中隊は南町口まで進み出て防戦したが、小山田からの砲撃を受けて西出丸へ戻っている。
少数の兵で善戦していた諏訪神社方面の会津軍も三方から挟撃され城内へ退いた。
昼夜を通しての砲撃で述べ2500余発が発射されたといい、籠城していた会津兵及び婦女子の死傷者が多数出た。
会津側では豊岡社より川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)が小田山へ撃った砲弾が小田山の敵陣に命中したという。
夜半に城外の北方・塩川方面にいた会津藩越後口総督一ノ瀬要人(いちのせかなめ)率いる兵と、北西・中荒井周辺にいた陣将萱野権兵衛率いる兵が一ノ堰周辺に移動。

豊岡社跡 豊岡社から小田山を臨む

▲川崎尚之助が反撃した豊岡神社跡地と付近から小田山方面を撮影

15日会津軍の動きに応じて新政府軍が高田方面の補給路を断つため鶴ヶ城南方の青木・中野・徳久周辺の会津軍を攻撃するが果たせず引きあげる。
一ノ瀬隊は戦いに勝利したが、総督一ノ瀬が重傷を負い、隊長西郷刑部、大竹主計(かずえ)、原早太(そうた)などの将が戦死した。
この日、会津藩では降伏交渉のため藩士手代木直右衛門(てしろぎすぐうえもん)と秋月悌次郎(あきづきていじろう)を米沢藩の陣地に赴かせた。
16日新政府軍八十里越支隊が藤江・沼ノ平に着く。

17日朝8時頃、小田山と飯寺の新政府軍が再び一ノ堰まで進撃。白虎一番寄合組隊・砲兵隊・玄武士中隊・朱雀二番寄合組隊等が防戦するが後退し3km程後方の雨屋村で反撃、青龍三番士中隊・朱雀四番士中隊などが追撃に移る。
新政府軍を後退させたが、総督一ノ瀬が15日の戦傷により死亡し、残された兵団は鶴ヶ城南西8kmの福永へ集合した。この戦いで山本八重の父、玄武士中隊の山本権八が戦死。

18日早朝に新政府軍が高田へ出撃、佐川官兵衛の隊は包囲される前に撤退し大内へ転陣しており、これに応じて福永の会津兵も大内へ向かう。
※この日、棚倉藩が降伏

19日、会津藩手代木・秋月らが米沢藩を通じて土佐の本営に降伏願書を提出。
20日、板垣退助は降伏願書を受諾し、会津藩降伏の交渉がまとまる。
21日、新政府軍からの発砲停止。松平容保、将士に開城を諭す。開城の令の文を見て自害する藩士もあった。
この日、容保の義姉の照姫が小切れを集めさせて長さ三尺(約90cm)・幅二尺(約60cm)の降伏の旗を作ったという。

白旗 明治五年鶴ヶ城天守閣

▲大手先の正門前・黒鉄門・他一カ所に白旗を掲げた

22日午前10時、鶴ヶ城大手前の西側石橋の欄干に「降参」と大書された旗が立てられた。
容保・喜徳父子が内藤家・西郷家の間の武場(本一丁目と甲賀町通りの交差点)に臨み、総督府宛てに降伏謝罪の書を提出した。その後容保は、戦死者を投げ入れた二の丸の大空井戸に香花を供えて忠魂を礼拝した。容保らは新政府軍に滝沢の妙国寺に護送されて謹慎する。
開城時に城内の人員は約五千名程だった。
この日山口村で佐川隊が新政府軍を撃破。
この夜12時頃に、山本八重が三の丸雑物倉の壁に歌を笄で刻む。
明日の夜は何処(いずく)の誰か眺むらん 馴れし御城(みそら)に残す月影

八重の歌 三の丸壕跡

▲八重の歌・三の丸濠跡

23日、城内の将兵が謹慎地の猪苗代に向け出発。
老幼女子は現在の喜多方方面、傷病者は城南の青木村に移された。
※この日、庄内藩降伏
24日午後、若松城引き渡しが行われた。

会津南部では佐川官兵衛率いる会津軍の戦闘が続行されていたが、25日に若松から正式な降伏状が届き、26日に大内の部隊が解隊。続いて田島や伊南方面の諸隊も帰順し、謹慎所の塩川へ向かった。

※参考図書は川崎尚之助伝習隊関連記事に同じ

大龍寺[2]林権助(安定)墓所

大龍寺山門

大龍寺(だいりゅうじ)山門

 

林権助 安定(はやしごんすけ やすただ)
文化3年(1806)会津藩士林権助(安論)の子として生まれる。家禄三百五十石。
はじめ又三郎といい、長じて馬術と槍を得意とし江戸詰めで江戸藩邸の警備にあたる。

嘉永6年(1853)蘭学や砲術を学べる江戸へ、山本覚馬(かくま)を同行させる。
安政2年(1855)天保の改革の失敗で失脚した老中水野忠邦藩邸を包囲した騒ぎを鎮めて名声を高めた。

文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)に従い京へ上洛し、洛中の子弟から洋式の大砲隊を編成して鍛え、軍事奉行兼大砲隊長となる。
この時火縄銃が主流で槍術を自負する会津藩内では様式訓練を毛嫌い(砲術師範の山本覚馬(かくま)も様式銃導入を求めて禁則処分を受けたことがある)
吉田山から鴨川見れば 御髭大将かけ廻る
と「おひげの隊長」などと軽々しく呼ばれたが、禁門の変では大砲を率いて、天王山の真木保臣(まきやすおみ)を追撃し大いに活躍した。

慶応2年(1866)将軍徳川家茂(いえもち)の薨去、孝明天皇の崩御で公武一致の国是は破れ、会津の形成は不利になった。
慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜(よしのぶ)が政権返上、西南雄藩主導での王政復古大号令が発せられ慶喜の辞官と納地が決まると、旧幕臣や桑名・会津藩の反発による京での武力衝突を危惧した慶喜は旧幕府側の兵を引き連れ大坂城に移った。

慶喜の警固をめぐって水戸藩と新撰組が対立、薩摩藩の江戸での暴挙や二条城に攻め入るなど風説・攪乱交錯が飛び交い、新政府と旧幕府の衝突は避けられず、慶応4年(1868)正月2日に大砲隊を率いる権助ら会津藩兵300人、新撰組、旧幕府の歩兵隊や京都見廻組(みまわりぐみ)ら総勢1500人は京都を奪還すべくと共に伏見に向かう

3日の朝に薩摩・長州・土佐藩は各所に兵を進め、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
会津軍の主力は京の南南東に通じる伏見街道を進むべく伏見街道に集結し、表御門・伝習隊が北の御門・新撰組は裏手を警備した。

午後五時頃、京の南南西へ通じる鳥羽街道上の下鳥羽と上鳥羽間で入京しようとする旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が各方面に響き渡り開戦となる。

権助の大砲隊は開戦直後に砲撃を受け、権助は伏見奉行屋敷の北門を開いて薩摩兵に大砲3門で撃ち返す。
新撰組は裏の庭から一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えた。
別撰組・上田隊が会津軍の応援に駆け付けたが薩長軍の大砲は破裂する焼玉で火災や負傷者が増えていき、砲撃戦は深夜まで及ぶが勝敗は決しなかった。

突撃した会津槍隊は銃弾で撃たれていく。権助は槍をもって突進し敵を蹴散らしたが、銃撃8発を受けて重傷を負う。
しかし最後まで兵を叱咤激励し、あとで助け出されて後方へ退いた。
4日午前1時頃に淀城下へ退却。
朝になり新政府軍が鳥羽・伏見両街道から淀城下に向けて進撃開始。旧幕府軍は劣勢の中、林砲兵隊・大砲奉行白井五郎大夫率いる大砲隊130人余・佐川官兵衛(さがわかんべえ)率いる別撰組(べっせんぐみ)両隊・掘隊が食い止め、淀の北東4キロの下鳥羽まで押し戻した。白井隊の奮戦すさまじく「勇なるかな会津の白足袋」と白井隊の味方識別の足袋をさして称えられた。

5日に伏見街道の堤上を前進する新政府軍に、林砲兵隊・佐川隊が援護射撃のもと刀槍での白兵戦を挑むが、正午過ぎに各方面崩される。淀城に拠って立て直そうとするも突然新政府軍についた淀(稲葉)藩に拒否され、淀大橋から南方に退却。
この日、別撰組配下で参戦していた山本三郎が、淀城の川の対岸方面の八幡(京都府八幡市)で負傷兵の救助中に銃で撃たれる。

江戸で小野派一刀流を極意を極め、江川塾で砲術を学んでいた権助の一子、又三郎(安儀)も鳥羽伏見の戦にかけつけて戦い、父が重傷を負ったと聞くと佐川の別撰組に入る。しかし敵陣に斬りこもうとした時に胸部を撃たれて絶命した。

6日夜に慶喜が、会津藩主松平容保をつれて密かに江戸へ帰ったことが戦線の将兵達に伝えられると、彼らも紀州を経て汽船で江戸へ向かった。
権助の傷は深く、3日後に紀州沖で絶命した。享年63歳。
江戸に運ばれた山本三郎も16日に会津藩中屋敷で事切れた。三郎の訃報と形見の紋付は3月に会津の山本家に届けられる。

又三郎の子で権助(安定)の孫にあたる磐人(いわと。林権助の名を継ぐ)は9歳で家督を相続し、鶴ヶ城下に新政府軍が進軍した時は祖母の実家の萱野権兵衛宅に泊まっており、萱野家の婦女子達と三の丸に入り鶴ヶ城籠城戦を体験する。戦後は薩摩藩士の援助を受けて東大政治科を卒業。外交官となって英国大使などを勤め、男爵を授けられた。

 

林権助安定墓所 林氏合葬の墓

▲林氏合葬の墓、左右に林安定・又三郎(安儀)親子の墓がある

・権助が目にかけていた山本覚馬、覚馬や新島八重の弟の三郎ら山本家の墓
 →大龍寺[1]山本家の菩提寺

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

参考図書
・『歴史読本2013年07月号
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・木村幸比古『新選組日記
・『近代日本に生きた会津の男たち』稲林敬一「林権助」※磐人

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
林権助:風間杜夫さん
山本覚馬:西島秀俊さん
山本三郎:工藤阿須加さん
佐川官兵衛:中村獅童さん
松平容保:綾野剛さん
徳川慶喜(一橋慶喜):小泉孝太郎さんが演じています

西郷頼母邸跡と四郎顕彰碑

西郷邸から大手門を臨む

▲降伏の白旗を立てた鶴ヶ城北の大手口を西郷邸跡地から撮影
鶴ヶ城北追手前に西郷頼母の屋敷が在った。隣は萱野権兵衛邸

 

西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり。保科近悳)
千七百石。西郷家は元は信州高遠城主保科正直の弟三河守正勝から始まる保科氏で、代々会津家老職の家柄であった。鷹の羽の家紋の他に保科家の並九曜紋を許されていた。
頼母は文政13年(1830)閏3月24日若松追手前家老屋敷にて、江戸詰家老西郷近思(ちかし。25歳)の子四男八女の長男として生まれる。母は律子(小森家)。

会津藩江戸屋敷で大半を過ごし、天保14年(1843)14歳で初見参、側役小姓頭を勤め、22歳で飯沼粂之進の次女千重子(17歳。白虎隊で生き残った飯沼貞吉の叔母にあたる)と結婚。28歳で家督を継ぎ番頭に任じられる。

33歳で家老に任ぜられた文久2年(1862)に藩主松平容保から京都守護職任命の内意が伝えられ、会津藩の現状を汲み「御辞退あるべし」と進言したが、容保は守護職を受ける。
頼母は翌年も上洛し守護職辞任を迫ったが、家老を免職され、国に戻り下長原村に栖雲亭を営み隠栖した。

39歳、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いの頃に家老に復職、白河口総督の任に就く。
藩の存続第一に考えた彼の性質から、兵法を修めた者の意見を跳ね除けて苦戦し犠牲を招く逸話も残るが、5月1日の稲荷山の激戦では馬を下りて自ら戦おうとするも親族の朱雀士中一番小隊飯沼時衛(白虎隊飯沼貞吉の父)の諌めでようやく退く決死の覚悟もあった。
白河方面敗戦の責により8月2日免職となるが、閉門を顧みず登城し水戸軍を率いて冬坂を守備したという。
8月23日朝、西郷邸で頼母の言いつけ通り一族21名が自刃

近悳は鶴ヶ城開城の前に藩主容保から命を受け城外に出、長男の吉十郎有鄰を伴い、米沢を経て仙台から開陽丸で大鳥圭介らと共に出航し10月20日蝦夷鷲ノ木着。
他の藩主・家老達と共に役員外江差詰として箱館戦争に参加。
捕えられる直前に、12歳の吉十郎を函館の神明宮神官の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟にあたる旧土佐藩士。日本初のギリシャ正教牧師となる)に託す。

明治2年(1869)5月自訴降伏。三旬ほど揚り屋(牢)に捕えられた後に東京に護送され、9月21日から翌3年2月まで上州館林藩に幽閉。
幽閉を免ぜられると東京深川の覚樹王院に弟陽次郎と住む。
雲井龍雄事件(陽次郎は獄死)での捕縛と釈放を経て、伊豆・江奈村(現静岡県松崎町江奈)に移住し、明治4年(1871)謹申学舎の塾長を務める。

明治8年(1875)に都々古別神社(現在福島県棚倉町)の宮司に就任。
明治10年(1877)西南の役がおこり、旧会津藩士は新政府軍の抜刀隊に応募する中、近悳は西郷隆盛と交遊を持っていたという。
明治11年(1878)宮司を解任させられ、翌年吉十郎が東京神田和泉町の医科大学病院で病死(享年22歳。東京西麻布長谷寺に墓所)。

51歳になり明治13年(1880)松平容保(45歳)が日光東照宮宮司に赴任すると、補佐役の禰宜として仕えることとなった。
明治17年(1884)志田家の四郎(16歳)を養子にし、青森県上北郡伝法寺のきみ女を後妻に迎えた。

その後日光東照宮禰宜を辞任し政府批判運動に加わるが、新政府弾劾の中心人物の後藤象二郎の入閣により運動は消滅。
明治22年(1889)霊山神社(福島県伊達郡)宮司となり神社と地元発展に尽す。霊山神社を訪れた武田惣角に請われて合気道大東流奥義を伝授した。
※剣術は溝口派一刀流を学び、馬術にも長じ、特に甲州流軍学の奥義を極めていた頼母は非常に小柄で足袋は僅かに九文半(22.5cm)であった。合気術は小柄でなければ奥義に達せられず、会津藩にあっては合気術は側近にある重臣と奥女中のみに教授されたと言われている。

明治26年(1893)従七位に叙される。
明治32年(1899)4月、70歳で故郷会津に帰る。
明治36年(1903)4月28日午前6時、下女のお仲(なか)と暮す沼沢邸跡の若松市栄町九番地通称十軒長屋(現会津若松市東栄町1。西郷邸跡地の北100m程)で脳溢血により没した。享年74歳。戒名は栖雲院殿従七位八握髯翁大居士。
葬儀は当時11歳の養子保科近一(きんいち)が喪主で神式でいとなまれた。

辞世は「あいつねの遠近(おちこち)人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」
墓所は妻千重子と共に会津の善龍寺

 

西郷邸祉. 西郷頼母邸案内板

西郷邸祉
慶応4年(1868)西軍が鶴ヶ城下に押し寄せた時に西郷一族二十一人が自刃した。

 

西郷四郎顕彰碑

▲鶴ヶ城の西郷四郎顕彰碑

西郷四郎
慶応2年(1866)2月4日、会津藩士の志田貞二郎(しだていじろう)の三男として会津城下に生まれる。

幼時を津川(現新潟県津川町)で過ごし、津川小学校卒業後は代用教員などを務めた。
明治15年(1882)3月24日上京したのち嘉納治五郎(かのうじごろう)創設の講堂館に入門。四年後に五段に昇進し講道館四天王の一人と謳われ、やがて柔道創立の功労者となる。
四郎は非凡な運動神経の持ち主で、投げられても地に着くまで身をひるがえす柔軟さから「猫」と呼ばれる。後に禁じ手となった彼独自の特技山嵐(やまあらし)は養父の頼母から大東(だいとう)流武田惣角、更に四郎に手ほどきされたのが基本になっているという。

明治17年(1884)保科(西郷)頼母の養子となり、明治21年に西郷家を再興。
明治23年(1890)に講道館を去り6月21日に中国へ渡ったのち、長崎に居を構えて「東洋日の出新聞」出版責任者として副社長就任。長崎遊泳協会創立に携わるなど多方面で活躍する。
大正11年(1922)12月23日、神経痛療養中の広島県尾道市で没した。享年57歳。

柔道のみならず槍術、居合術にも秀で、弓道は奥義を極めていた四郎をモデルに夏目漱石は「坊ちゃん」に山嵐を登場させ、富田常雄は小説「姿三四郎」を発表、黒沢明監督のデビュー作としても有名である。

 

西郷邸祉
所在地:福島県会津若松市追手町

院内の「会津武家屋敷」に西郷邸をイメージして復元した家老屋敷があります

参考図書
・文化財資料室西郷頼母編集委員会『西郷頼母』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち

萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑

萱野権兵衛邸跡 萱野邸跡地看板

▲萱野権兵衛・郡長正ら萱野家の屋敷跡地付近の看板
萱野邸は北出丸向かいの西郷頼母宅の東隣に在った。
会津戦争時、父萱野小太郎長裕・母ツナ・妻のたに(35歳)・次男乙彦(郡長正。13歳)・三男虎彦(郡寛四郎。11歳)・長女りう子(9歳)・次女いし子(7歳)・五郎(4歳)は前日泊まった親戚の林権助一家と籠城協力のため三の丸に入る。

 

萱野権兵衛長修(かやのごんのひょうえながはる)
萱野家の始祖萱野権兵衛長則は加藤嘉明の重臣で会津への国替えに従い、嘉明の子の加藤明成が石見に厳封された後に入部した会津藩祖の保科正之に登用された。
以来萱野家は会津の名門として会津藩を支え、9代目が萱野権兵衛長修(ごんべい、ながのぶ とも)である。

権兵衛長修は文政13年(1830、天保元年)に生まれ、文久3年(1863)に父長裕(ながひろ)から家督を継ぎ、元治元年(1864)で若年寄、翌慶応元年(1865)に家老に就任。
国家老(くにがろう)として、藩主松平容保が京都守護職任命で在京中の間、会津での内政の責任を担った。知行千五百石。
誠実温厚な性格といわれるが文武両道に秀で、一刀流溝口派(いっとうりゅうみぞぐちは)の奥義を極めた剣豪でもあった。

慶応4年(1868)戊辰戦争中は先頭に立って激務にあたり、鶴ヶ城が包囲された後は、高久宿に布陣し城内との連絡や糧食物資補給に勤めた。
9月22日午前10時頃、会津藩主松平容保・養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟。15歳)父子は大手門前の式場に出て降伏状を官軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)に渡し、同席した家老萱野権兵衛ら重臣達の連名で、家臣の処罰の代わりに容保父子の助命を嘆願したため、容保の処遇は幽閉に留まった。

開城後は会津藩第10代藩主喜徳(慶応4年2月に家督を相続)に伴い滝沢村の妙国寺で謹慎する。
10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され東京へ出立。
容保は因州藩池田邸に入り、喜徳と重臣達は久留米藩有馬邸での謹慎となる。喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも権兵衛は常に正座していたという。

明治元年(1868)11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を許し、首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、戦争責任者の差出を求められたのである。
新政府は会津松平家の親戚であり、情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じ、正益は会津藩家老田中土佐(たなかとさ)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)を戦争責任者として選び、返答した。
田中・神保は8月の戦争中に甲賀町で既に切腹しており、死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。
このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。

権兵衛の潔さと決意に感じ入り、正益は先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
翌明治2年(1869)5月頃、政府は反逆首謀者として萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

この時青山の紀州藩邸に預けられていた松平容保の義姉・照姫保科正益の実姉)は、権兵衛へ「この度の儀、誠に恐れ入り候次第」の書き出しの手紙と共に
「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども」と歌を贈った。

また容保からも懇ろな手紙と、喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。
5月18日の処刑の日の朝、浦川藤吾に普段と変わらない様子で斬首に際して襟元などを入念に整えさせ、茶の仲間であった会津藩士井深宅右衛門重義(いぶかたくうえもんしげよし。容保の御側付)が茶を点じる。
また戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

麻布広尾の飯野藩保科家下屋敷へ移され、飯野藩大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎ら八人が処刑に立ち会った。
しかし保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、飯野藩士沢田武治の介錯をもって、切腹の作法通りに扇腹(おうぎばら、扇子腹とも。三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)に載せた白扇を取り上げた時に首を落す)で、政府の斬罪の要望と、権兵衛に対し会津武士の面目両方を保させた。

享年42歳(40とも)、戒名は報国院殿公道了忠居士。墓所は東京都港区白金の興禅寺と福島県会津若松市の天寧寺
介錯を務めた沢田武治の子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られたという。
また本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺をの墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

※保科邸での切腹については「飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の切腹」記事にて

 

郡長正(こおりながまさ)
萱野権兵衛の次男、乙彦。安政3年(1856)生まれ。
成績優秀で戊辰戦争後の明治3年に会津の教学復興を担い他の旧会津藩士の子弟6名と共に小笠原藩(九州の福岡県)に留学。
豊津の藩校育徳館で学ぶが、伝わる逸話によると母親に食べ物が合わないことを嘆いたことを諌められた手紙を同級生に大衆の面前で嘲笑されて(会津藩をなじられた説も)面目を潰されてしまう。
後日会津武士の誇りをかけて藩対抗の剣道試合に出場し全勝したが、屈辱を晴らすために明治4年(1871)5月1日育徳館南寮の一室で自刃した。享年16。
小笠原藩は長正の死を悼み、会津の方向に向けて長正の墓を建立。
会津には父と共に福島県会津若松市の天寧寺に墓が在る。

 

鶴ヶ城内萱野国老殉節碑 萱野国老殉節碑案内板

萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)
鶴ヶ城本丸に、天守閣を見守るように建立された殉節碑。
また阿弥陀寺(会津若松市七日町)にも萱野長修遥拝碑が建てられている。

 

・会津藩家老萱野権兵衛邸址
所在地:福島県会津若松市追手町5(現在は「蕎八かやの」店舗)
・萱野国老殉節碑
所在地:会津若松市追手町1(鶴ヶ城城址公園内)

参考図書
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号
・『歴史読本2013年07月号
・宇都宮泰長『会津少年郡長正自刃の真相
・牧野登『保科氏800年史』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・村井弦斎・福良竹亭『西郷隆盛一代記』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』

中野竹子殉節の地碑と柳橋

中野竹子像

中野竹子(なかのたけこ)
嘉永3年(1850)3月、竹子は会津藩江戸常詰の勘定役・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩藩邸で生まれ江戸で育った。母考子(こうこ)は下野国足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘。
7、8歳の頃から中野家と同じ会津藩上屋敷に住む赤岡大助(忠良)に手習いや剣術などを学び、赤岡忠良が大坂の御蔵奉行として赴任の際、養女に懇願され共に大坂へ赴く。

その後竹子は会津の行く末を案じて中野家に復籍し、戊辰の役(戊辰戦争)の三年程前まで松山藩主板倉勝清(かつきよ)の姫君の祐筆として仕えていた。
明治戊辰の役が始まり、会津に帰国すると若松城下米代の田母神兵庫家山本家案内板の現在の若松商業高校校舎のあたりに名前が見える)の書院を借りて住む。
赤岡忠良も坂下で道場を開き、竹子も剣道の稽古に通った。

慶応4年(1868)8月23日朝、官軍が鶴ヶ城下へ侵入したと知らせを受け、母の考子(44歳)・竹子(22歳。18とも)・妹の優子(ゆうこ。16歳)らは、依田まき子(30歳)・菊子(18歳。のち水島)姉妹と岡村すま子(35歳)ら薙刀を手に、後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる婦女子隊を結成し追手門て向かう。
考子とすま子は鼠、まき子は浅黄、竹子は青味の縮(ちぢみ)、優子は紫の縮、菊子は縦縞のあずき色の、一目で女性と分かる着物を纏っていた。

しかしすでに城門は閉ざされており、藩士から「照姫(藩主容保の義姉)様は坂下宿(ばんげじゅく)に避難された」と竹子達にも西に逃げるよう促される。照姫を護ろうと河原町口の郭から坂下へ向かうが、これは誤報であった。
坂下で照姫が城内に居ることを知り、坂下宿の法界寺(ほうかいじ)の板の間で過ごす。
24日、再度入城を目指した途中で城下西北の高久(たかく。現会津若松市神指町大字高久)宿に駐留していた家老の萱野権兵衛に参戦を願い出るが婦女子の参戦は許されず、竹子たちは「許されなければ自刃する」と押し切って、越後口から転じていた旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい。幕府陸軍歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門指揮)に加わった。

25日早朝に七日町を目指し三方向から進軍するも新政府軍の守備兵を突破できず12時頃には高久に後退。
午後4時頃、衝鋒隊400名余が2隊に分かれて進撃、娘子軍は最後尾の義勇兵と共に越後街道を南に進んだ。
(この時の娘子軍は全員斬髪・白羽二重・鉢巻・女性物の着物に襷をし、細い兵児帯で裾を括った義経袴・脚絆に草履を紐で絞め、大小の刀をさし薙刀を持っていたと依田菊子が回想している)

夜になり、柳橋(涙橋)の北600mで長州藩・美濃大垣藩との戦いとなった。
新政府軍は相手が婦人と分かると討たずに生け捕りを命じ、娘子軍は先に殉じた家族の仇を前に生け捕りを恥じとして必死に戦ったが、ついに竹子は額(胸という説もあり)に被弾してしまう。
竹子は母考子と妹優子に介錯を頼んだ。(16歳の優子ではうまく首が切れず上野吉三郎の手伝い、農兵が切り取った説も有り)享年22歳。

娘子軍は高瀬村(現会津若松市神指町高瀬)に引き揚げ、翌日坂下の法界寺に着く。
竹子の首は法界寺の梅ノ木の根元に懇ろに埋葬された。

竹子が出陣の際に薙刀に結び付けた短冊に書いた辞世の句は
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれは 数には入らぬ我が身ながらも」

娘子軍は萱野権兵衛に城内で負傷兵の看護其他で働くことを薦められて28日に鉄炮を持った足軽の護衛付で入城した。

 

中野竹子殉節の地碑 中野竹子奮戦の地案内板

中野竹子殉節之地碑
竹子が戦死した柳橋近くの湯川端に昭和13年(1938)建碑
所在地:福島県会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原(バス停「黒川」から徒歩3分)

 

涙橋 涙橋の由来

▲越後街道の湯川にかかる柳橋(涙橋)
上杉景勝の築造と刑場にちなむ涙橋と呼ばれる由来

 

新撰組記念館中野姉妹の図

▲会津新撰組記念館蔵「中野姉妹柳橋出陣の図」
(撮影可でしたので個人日記使用として掲載させて頂きました)

参考図書
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・『会津人群像 第13号
・『歴史REAL八重と会津戦争

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
中野竹子:黒木メイサさん
中野コウ(考子):中村久美さん
中野優子:竹富聖花さん
が演じています