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会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

鶴ヶ城天守閣 鶴ヶ城案内

鶴ヶ城天守閣

慶応4年(1868)8月23日明け方に新政府軍は戸ノ口原の会津軍を攻撃し、会津軍は防戦しきれずに後退。
新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下に進撃する折に、滝沢本陣の松平容保は馬に乗り出陣しようとするが家臣に諌められ、若松城下大手口の甲賀町郭門へ向かった。

北出丸側甲賀口方面 北出丸

▲甲賀口方面、手前に北出丸

城下北側の入口、蚕養(こがい)口の手前では国産奉行河原善左衛門率いる一隊が防戦するも河原隊長らの戦死により退却。新政府軍は甲賀町郭門に迫った。
郭門内で指揮をとっていた容保は、家老田中土佐・神保内蔵助に任せて帰城し、出迎えた白虎士中一番隊が防衛を命じられ郭門内東側の三宅宅に拠り応戦した。
間もなく東隣の六日町から新政府軍が進入して甲賀口が破られ、隊士達は土手沿いに退却。このうちの一団が愛宕山で自刃しようとした所を味方の兵に諌められて思いとどまり入城を目指した。
(戸ノ口原に参戦した白虎士中二番隊のうち十九名は飯盛山で自決する)

薩摩・長州・土佐兵は甲賀口から南方700mの鶴ヶ城北出丸に接近し砲撃を加えたが、城内からも城壁の銃眼から撃ち返して新政府軍の将兵達を死傷させた。
しかし新政府軍の急迫によって入城や避難できなかった、あるいは自らの意志でしなかった会津藩士の家族たちが自刃して果てた。(なよたけの碑に戦病者含めた230余名の氏名が刻まれている)

城内では容保・喜徳父子が黒鉄門(くろがねもん)内へ御座所を設えて指揮をとり、小室金吾左衛門を頭の兵を迎撃にあたらせ、更に山浦鉄四郎の一隊を共に西方へ出撃させた。天神橋の戦によって犠牲を出しながらもこの方面は9月まで会津側に確保される。

※この日の朝、山本八重(この時24歳)の家では寄宿の米沢藩士内藤新一郎が戦況を伝える為に米沢へ向かう。
母佐久と兄嫁うら達は近隣の村に避難し、八重は鳥羽・伏見の戦で戦死した弟三郎の形見を身に着けて、七連発元込めのスペンサー銃を背負い鶴ヶ城に籠城することを決めた。入城後に八重は高木時尾に断髪を頼む。

黒鉄門側 廊下橋

▲走長屋と黒鉄門、八重が入城の際に渡ったという廊下橋

25日早朝、猪苗代湖北西方面に出陣していた萱野権兵衛率いる隊が西部から入城を図るが、新政府軍の守備が固く留まる。越後方面から退いてきた旧幕郡の衝鋒隊と共に再度挑んで兵の一部が入城。※この時娘子軍が同行し中野竹子戦死
鶴ヶ城天守から南東1360mの小田山を新政府軍が占拠。

西出丸 西出丸2

▲西出丸

26日、日光方面の山川大蔵の部隊が彼岸獅子を先頭に立てて西追手門(西出丸から北側に出る搦手門)から入城。
新政府軍側は小田山にアームストロング砲一門を含む大砲を運び上げた佐賀藩が天守めがけて砲撃開始。三斗小屋の西軍は野際に到る。
27日会津藩大砲隊士の戸枝栄五郎・鯨岡平太郎・川崎尚之助らが鶴ヶ城南の豊岡神社から四斤山砲で小田山を砲撃。

鶴ヶ城から小田山方面 小田山からの鶴ヶ城

▲天守閣からの小田山方面と、小田山から肉眼視野に合わせて撮った鶴ヶ城

28日、日光口の芸州藩などの西軍が山王峠を越え、糸沢村に到る。
29日朝に糧道確保のため総督佐川官兵衛以下約1000名の兵が濃霧に紛れて城外へ出撃。新政府軍が駐屯する北西1.5kmの長命寺を目指す
芸州藩は糸沢より田島に進む。融通時寺町で戦闘。
30日に新政府軍は大内に宿陣。

9月1日三斗小屋の西軍は音金に達す。大内峠の戦。
2日関山の戦。八十里越の新政府軍は叶津に到着。
3日大内峠より栃沢にて激戦。新政府軍が再び関山を攻める。
4日、日光口から進撃してきた新政府軍の兵が鶴ヶ城西南3kmの飯寺(にいでら)に到着。
神保平八郎率いる青龍三番寄合組の防戦むなしく新政府軍は城下南端の住吉神社まで迫るが、河原町に本営を置いていた佐川官兵衛が砲兵隊を向かわせて撃退。
※この日、米沢藩が新政府に帰順し、新政府軍は小田付村に民政局を置く

5日早朝、高久(たかく)に着陣していた萱野権兵衛率いる会津軍が新政府軍に攻撃され北東6kmの塩川に退く。
6日越後口の西軍が坂下・塔寺・柳津に到る。
8日、塔寺方面から退却した会津軍、本木信吾の青龍隊と水戸兵や山本帯刀(たてわき)率いる長岡兵が共に飯寺の新政府軍を攻撃するも果たせず、濃霧で敵を誤認した長岡兵が捕えられ斬首された。
※この日、明治と改元
9日、佐川隊が田島陣屋を奪回する。

10日、越後口からの新政府軍が小荒井(現喜多方市西部)まで進み、西郷刑部隊や町野主水率いる朱雀四番士中隊は安勝寺に拠って防戦。後に雷鳴戦争と称されるほど銃声のみが激しい戦いであったという。塩川に退いた萱野隊も呼応し守備に就く。
11日未明に来襲した新政府軍の松代・岩国・越前兵を撃退するが、米沢藩が新政府に帰順したため背後を衝かれる危険性を避けて会津軍は鶴ヶ城南方の一ノ堰(いちのせき)へ向かう。

14日早朝に鶴ヶ城内へ総攻撃が決行された。小田山に据えたアームストロング砲、メリケンボート砲、従来の山砲等15門の大砲の砲撃を合図に、城の西北の諏訪神社付近で長州・大垣・土佐三藩による攻撃が行われた。
鶴ヶ城下では北西から南にかけての外郭の桂林寺町口・融通寺口・川原町口・花畑口・南町口を攻撃。
西出丸を守る郡上藩の凌霜隊や再編された白虎隊士中隊は南町口まで進み出て防戦したが、小山田からの砲撃を受けて西出丸へ戻っている。
少数の兵で善戦していた諏訪神社方面の会津軍も三方から挟撃され城内へ退いた。
昼夜を通しての砲撃で述べ2500余発が発射されたといい、籠城していた会津兵及び婦女子の死傷者が多数出た。
会津側では豊岡社より川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)が小田山へ撃った砲弾が小田山の敵陣に命中したという。
夜半に城外の北方・塩川方面にいた会津藩越後口総督一ノ瀬要人(いちのせかなめ)率いる兵と、北西・中荒井周辺にいた陣将萱野権兵衛率いる兵が一ノ堰周辺に移動。

豊岡社跡 豊岡社から小田山を臨む

▲川崎尚之助が反撃した豊岡神社跡地と付近から小田山方面を撮影

15日会津軍の動きに応じて新政府軍が高田方面の補給路を断つため鶴ヶ城南方の青木・中野・徳久周辺の会津軍を攻撃するが果たせず引きあげる。
一ノ瀬隊は戦いに勝利したが、総督一ノ瀬が重傷を負い、隊長西郷刑部、大竹主計(かずえ)、原早太(そうた)などの将が戦死した。
この日、会津藩では降伏交渉のため藩士手代木直右衛門(てしろぎすぐうえもん)と秋月悌次郎(あきづきていじろう)を米沢藩の陣地に赴かせた。
16日新政府軍八十里越支隊が藤江・沼ノ平に着く。

17日朝8時頃、小田山と飯寺の新政府軍が再び一ノ堰まで進撃。白虎一番寄合組隊・砲兵隊・玄武士中隊・朱雀二番寄合組隊等が防戦するが後退し3km程後方の雨屋村で反撃、青龍三番士中隊・朱雀四番士中隊などが追撃に移る。
新政府軍を後退させたが、総督一ノ瀬が15日の戦傷により死亡し、残された兵団は鶴ヶ城南西8kmの福永へ集合した。この戦いで山本八重の父、玄武士中隊の山本権八が戦死。

18日早朝に新政府軍が高田へ出撃、佐川官兵衛の隊は包囲される前に撤退し大内へ転陣しており、これに応じて福永の会津兵も大内へ向かう。
※この日、棚倉藩が降伏

19日、会津藩手代木・秋月らが米沢藩を通じて土佐の本営に降伏願書を提出。
20日、板垣退助は降伏願書を受諾し、会津藩降伏の交渉がまとまる。
21日、新政府軍からの発砲停止。松平容保、将士に開城を諭す。開城の令の文を見て自害する藩士もあった。
この日、容保の義姉の照姫が小切れを集めさせて長さ三尺(約90cm)・幅二尺(約60cm)の降伏の旗を作ったという。

白旗 明治五年鶴ヶ城天守閣

▲大手先の正門前・黒鉄門・他一カ所に白旗を掲げた

22日午前10時、鶴ヶ城大手前の西側石橋の欄干に「降参」と大書された旗が立てられた。
容保・喜徳父子が内藤家・西郷家の間の武場(本一丁目と甲賀町通りの交差点)に臨み、総督府宛てに降伏謝罪の書を提出した。その後容保は、戦死者を投げ入れた二の丸の大空井戸に香花を供えて忠魂を礼拝した。容保らは新政府軍に滝沢の妙国寺に護送されて謹慎する。
開城時に城内の人員は約五千名程だった。
この日山口村で佐川隊が新政府軍を撃破。
この夜12時頃に、山本八重が三の丸雑物倉の壁に歌を笄で刻む。
明日の夜は何処(いずく)の誰か眺むらん 馴れし御城(みそら)に残す月影

八重の歌 三の丸壕跡

▲八重の歌・三の丸濠跡

23日、城内の将兵が謹慎地の猪苗代に向け出発。
老幼女子は現在の喜多方方面、傷病者は城南の青木村に移された。
※この日、庄内藩降伏
24日午後、若松城引き渡しが行われた。

会津南部では佐川官兵衛率いる会津軍の戦闘が続行されていたが、25日に若松から正式な降伏状が届き、26日に大内の部隊が解隊。続いて田島や伊南方面の諸隊も帰順し、謹慎所の塩川へ向かった。

※参考図書は川崎尚之助伝習隊関連記事に同じ

大龍寺[2]林権助(安定)墓所

大龍寺山門

大龍寺(だいりゅうじ)山門

 

林権助 安定(はやしごんすけ やすただ)
文化3年(1806)会津藩士林権助(安論)の子として生まれる。家禄三百五十石。
はじめ又三郎といい、長じて馬術と槍を得意とし江戸詰めで江戸藩邸の警備にあたる。

嘉永6年(1853)蘭学や砲術を学べる江戸へ、山本覚馬(かくま)を同行させる。
安政2年(1855)天保の改革の失敗で失脚した老中水野忠邦藩邸を包囲した騒ぎを鎮めて名声を高めた。

文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)に従い京へ上洛し、洛中の子弟から洋式の大砲隊を編成して鍛え、軍事奉行兼大砲隊長となる。
この時火縄銃が主流で槍術を自負する会津藩内では様式訓練を毛嫌い(砲術師範の山本覚馬(かくま)も様式銃導入を求めて禁則処分を受けたことがある)
吉田山から鴨川見れば 御髭大将かけ廻る
と「おひげの隊長」などと軽々しく呼ばれたが、禁門の変では大砲を率いて、天王山の真木保臣(まきやすおみ)を追撃し大いに活躍した。

慶応2年(1866)将軍徳川家茂(いえもち)の薨去、孝明天皇の崩御で公武一致の国是は破れ、会津の形成は不利になった。
慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜(よしのぶ)が政権返上、西南雄藩主導での王政復古大号令が発せられ慶喜の辞官と納地が決まると、旧幕臣や桑名・会津藩の反発による京での武力衝突を危惧した慶喜は旧幕府側の兵を引き連れ大坂城に移った。

慶喜の警固をめぐって水戸藩と新撰組が対立、薩摩藩の江戸での暴挙や二条城に攻め入るなど風説・攪乱交錯が飛び交い、新政府と旧幕府の衝突は避けられず、慶応4年(1868)正月2日に大砲隊を率いる権助ら会津藩兵300人、新撰組、旧幕府の歩兵隊や京都見廻組(みまわりぐみ)ら総勢1500人は京都を奪還すべくと共に伏見に向かう

3日の朝に薩摩・長州・土佐藩は各所に兵を進め、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
会津軍の主力は京の南南東に通じる伏見街道を進むべく伏見街道に集結し、表御門・伝習隊が北の御門・新撰組は裏手を警備した。

午後五時頃、京の南南西へ通じる鳥羽街道上の下鳥羽と上鳥羽間で入京しようとする旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が各方面に響き渡り開戦となる。

権助の大砲隊は開戦直後に砲撃を受け、権助は伏見奉行屋敷の北門を開いて薩摩兵に大砲3門で撃ち返す。
新撰組は裏の庭から一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えた。
別撰組・上田隊が会津軍の応援に駆け付けたが薩長軍の大砲は破裂する焼玉で火災や負傷者が増えていき、砲撃戦は深夜まで及ぶが勝敗は決しなかった。

突撃した会津槍隊は銃弾で撃たれていく。権助は槍をもって突進し敵を蹴散らしたが、銃撃8発を受けて重傷を負う。
しかし最後まで兵を叱咤激励し、あとで助け出されて後方へ退いた。
4日午前1時頃に淀城下へ退却。
朝になり新政府軍が鳥羽・伏見両街道から淀城下に向けて進撃開始。旧幕府軍は劣勢の中、林砲兵隊・大砲奉行白井五郎大夫率いる大砲隊130人余・佐川官兵衛(さがわかんべえ)率いる別撰組(べっせんぐみ)両隊・掘隊が食い止め、淀の北東4キロの下鳥羽まで押し戻した。白井隊の奮戦すさまじく「勇なるかな会津の白足袋」と白井隊の味方識別の足袋をさして称えられた。

5日に伏見街道の堤上を前進する新政府軍に、林砲兵隊・佐川隊が援護射撃のもと刀槍での白兵戦を挑むが、正午過ぎに各方面崩される。淀城に拠って立て直そうとするも突然新政府軍についた淀(稲葉)藩に拒否され、淀大橋から南方に退却。
この日、別撰組配下で参戦していた山本三郎が、淀城の川の対岸方面の八幡(京都府八幡市)で負傷兵の救助中に銃で撃たれる。

江戸で小野派一刀流を極意を極め、江川塾で砲術を学んでいた権助の一子、又三郎(安儀)も鳥羽伏見の戦にかけつけて戦い、父が重傷を負ったと聞くと佐川の別撰組に入る。しかし敵陣に斬りこもうとした時に胸部を撃たれて絶命した。

6日夜に慶喜が、会津藩主松平容保をつれて密かに江戸へ帰ったことが戦線の将兵達に伝えられると、彼らも紀州を経て汽船で江戸へ向かった。
権助の傷は深く、3日後に紀州沖で絶命した。享年63歳。
江戸に運ばれた山本三郎も16日に会津藩中屋敷で事切れた。三郎の訃報と形見の紋付は3月に会津の山本家に届けられる。

又三郎の子で権助(安定)の孫にあたる磐人(いわと。林権助の名を継ぐ)は9歳で家督を相続し、鶴ヶ城下に新政府軍が進軍した時は祖母の実家の萱野権兵衛宅に泊まっており、萱野家の婦女子達と三の丸に入り鶴ヶ城籠城戦を体験する。戦後は薩摩藩士の援助を受けて東大政治科を卒業。外交官となって英国大使などを勤め、男爵を授けられた。

 

林権助安定墓所 林氏合葬の墓

▲林氏合葬の墓、左右に林安定・又三郎(安儀)親子の墓がある

・権助が目にかけていた山本覚馬、覚馬や新島八重の弟の三郎ら山本家の墓
 →大龍寺[1]山本家の菩提寺

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

参考図書
・『歴史読本2013年07月号
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・木村幸比古『新選組日記
・『近代日本に生きた会津の男たち』稲林敬一「林権助」※磐人

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
林権助:風間杜夫さん
山本覚馬:西島秀俊さん
山本三郎:工藤阿須加さん
佐川官兵衛:中村獅童さん
松平容保:綾野剛さん
徳川慶喜(一橋慶喜):小泉孝太郎さんが演じています

骨董むかしや(会津新撰組記念館)

会津新撰組記念館

「骨董むかしや」の1階奥~2階に会津新撰組記念館として会津藩稲富流砲術家の館長さんが集めた幕末維新史料・古式鉄砲コレクションが多数展示されています。
大河ドラマ「八重の桜」の撮影にも、この記念館の実物資料や所蔵品から制作されたものが使われているそうです。

管打ち式ゲベール銃

管打ち式ゲベール銃
ライフルの無い滑腔銃。初期は燧石式だった。
山本八重(やまもとやえ。新島八重)はゲベール銃を用いて隣家の伊東悌次郎(白虎隊士として飯盛山で自刃)に操銃法を指導した。
山本覚馬(かくま)の愛銃はヨーロッパ製ゲベール銃(銀ゲベール)。

ウェストリーリチャーズ砲兵

▲イギリス製ウェストリー・リチャーズ砲兵銃
八重の桜では川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)の新式銃。八重の弟山本三郎も鳥羽伏見の戦いでこの銃を使用し戦死。

エンフィールド銃とウィルソ

▲イギリス製エンフィールド銃(米沢藩の焼印あり)とウィルソン銃
エンフィールド銃は、八重の桜で京都会津藩本陣で覚馬の部下が使用。

後装式スナイドル銃とヤタガ

▲イギリス製1866年式スナイドル銃
八重の桜では薩摩藩大山弥助(巌)隊の鉄炮として使用。

スペンサー七連発騎兵銃 八重ブレークスリー弾薬箱

スペンサー七連発騎兵銃ブレークスリー弾薬箱
八重の愛銃と同じスペンサー銃。八重役の綾瀬はるかさんがドラマで使用するのもこの銃をもとに制作されたそうです

三百五十目玉大筒

▲江戸城備砲の三百五十目玉大筒
八重の桜では二本松藩木村砲兵塾所有の大砲として出演

 

骨董むかしやサイト:http://www.aizushinsengumi.com/
所在地:福島県会津若松市七日町6-7

いかにもな記念館名から想像つかないような古式銃が揃っているという下調べで、今回の会津来訪の大本命。蔵を利用した展示室は個人所蔵の小規模ながら期待通りに銃好きにとって嬉しい実物の洋式銃と火縄銃が並び、軍装品や絵図・書類等幕末維新資料館としても充実しています! 私が伺った時は撮影可でした

会津藩主松平家の別荘「御薬園」

御薬園 御薬園案内板

▲会津松平氏庭園 御薬園(おやくえん)
室町時代に霊泉が湧きだした地に建てられた別荘地を会津に入った保科正之が庭園を整えて保養所とし、寛文10年(1670)に二代藩主正経が薬草園をつくり、三代藩主正容が朝鮮人参の栽培に成功して「御薬園」と呼ばれるようになった。国指定名勝。

 

慶応4年(1868)2月22日九代藩主松平容保(かたもり)は会津に帰るとすぐ家督を養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の義弟)へ譲って城外の別邸御薬園に屏居し(延壽寺とも)謹慎の意を表したが、京都政府には受け入れられなかった。

鶴ヶ城開城後、この御薬園では容保の子供、長女の美称子(峯、みね。厚姫)、長男の容大(かたはる。慶三郎。会津松平家を引き継いだ斗南藩主)・六男の恆雄(つねお。政治家となる)が生まれている。

・明治2年(1869)3月21日、側室名賀(喜代。弘化元年1月5日生まれ、川村家)との間に厚姫が誕生。
・同年6月3日、側室佐久(さく。弘化3年生まれ、田代家。明治11年には七男の保男も生む)との間に慶三郎が誕生。
・明治10年(1877)4月17日、側室名賀との間に恆雄が誕生。(東京市谷邸生まれとも)

 

所在地:福島県会津若松市花春町8-1
ちょうど今日の大河ドラマで御薬園が放送されたのでコラムとして取り急ぎup。外観のみですみません

佐川官兵衛顕彰碑

佐川官兵衛碑と阿蘇の松

佐川官兵衛顕彰碑と阿蘇の松
鶴ヶ城の三の丸跡に戦死した熊本県阿蘇郡の石を使って建てられ、傍らに阿蘇の松が植えられています。
下に辞世「君がため都の空を打出て 阿蘇山麓に身は露となる」

 

佐川官兵衛(さがわかんべえ)
勝(すぐれ)と名乗り、諱は清直(きよなお)。天保2年(1831)9月5日に会津物頭で家禄300石の佐川幸右衛門直道(なおみち)の子として生まれる。母はとし。
江戸詰火消頭に就いていた時に本郷大火が起こり、口論となった幕府方火消同行の火筒(ほづつ)隊士を斬りつけ、謹慎処分を受ける。
謹慎が解けると文久2年(1862)に京都守護職となる会津藩主松平容保に従い上洛し、物頭を務める。後に学校奉行となって書生隊(会津藩諸生隊。若い学徒兵)を統括し京の警固にあたった。
山本覚馬(かくま)・八重の弟の山本三郎(やまもとさぶろう)も18歳頃の慶応3年(1867)に京都勤番として上洛し書生隊に入っている。

慶応4年(1868)1月2日鳥羽・伏見の戦いでは林権助の砲兵隊に従って、会津藩精鋭部隊別撰組(べっせんぐみ)を率いて出陣。別撰組配下に山本三郎ら書生隊も編入されている。
5日、淀城に近い宇治川堤上の街道を迫る西軍と官兵衛率いる別撰組が交戦。
抜刀して西軍を追いやる官兵衛に対して西軍は砲火をあびせ、官兵衛の刀は砲弾で折れる。胸に当たった銃弾は防具を貫くことはなかったが、右目の上をかすめた傷口からは鮮血が流れた。
血まみれでもひるまず斬り込む姿や、負傷した目を守るために敵の前で平然と傘をさした度胸から「鬼官兵衛」「鬼官」「鬼佐川」と呼ばれ恐れられた。
山本三郎は負傷兵の救助中に撃たれ、江戸に運ばれたが死去。

閏4月、越後口の隊長として朱雀四番士中隊を率いて、長岡藩の河合継之助等と共に戦い、8月に会津に戻ってからは野戦軍の指揮をとる。
容保に呼び戻されると戦功により若年寄から家老に昇格するが、籠城戦に際し梶原平馬(へいま)と意見が対立した。8月29日は長命寺で激戦を繰り広げる。
9月22日会津が降伏しても戦い続け、前会津藩主松平容保が親書を持たせて説得に当たった。

明治2年11月に旧南部領で会津松平家の再興が許され立藩した斗南藩の地へ、東京で謹慎していた官兵衛らは移住したが、明治4年7月に廃藩されたのを機に妻カツの眠る喜多方の岩月に戻る。

明治7年(1874)に警視庁に招請されるまでは悠々自適に暮していた官兵衛だが、旧会津藩士達の生活苦を見かねて彼等300人を引き連れて巡査隊に入った。

明治10年(1877)2月、西南戦争が勃発すると鎮圧のため2月29日に出征、豊後口第二号警視隊副指揮長兼一番小隊長として西郷隆盛軍に囲まれた熊本城に向かった。
3月18日熊本の阿蘇山麓(二重峠付近で薩摩示現流の達人の敵将と一騎打ちとなった逸話もある)で至近距離を撃たれて戦死。享年47歳。大分県大分市の護国神社(大分縣護國神社)の警察官墓地に埋葬されている。
福島県喜多方市の長福寺に官兵衛夫妻の墓が在る。

官兵衛の遺児・直諒(なおよし)は陸軍将校となるが日露戦争で戦死。父直道は戊辰戦争で戦死しており、佐川家の男児は三代にわたって国に殉じた。

 

佐川官兵衛顕彰碑
所在地:福島県会津若松市城東町

 

会津新撰組記念館佐川官兵衛

▲会津新撰組記念館の佐川官兵衛から秋月胤永(かずひさ。悌次郎)宛の手紙
撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました