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清水屋旅館-土方歳三が宿泊

慶応4年(1868)4月24日宇都宮の戦いで負傷した土方歳三は秋月登之助と共に裏街道から会津へ向かった。
26日会津領内の田島陣屋に到着。秋月は、田島代官(福島県南会津)の父のもとに残る。

29日土方らは会津若松城下に入って七日町(なぬかまち)の清水屋(しみずや)旅館に泊まり、医師松本良順(りょうじゅん)らの治療を受けた。
夕刻に唐津藩士の松川精一(大野右仲の変名)と面談する。

そして猪苗代に逗留していた山口次郎(斎藤一。副長助勤)ら先発の新撰組隊士・安富才助率いる新撰組本体と合流。総勢およそ130名。
療養中の土方に代わり山口を隊長、安富を副長に任命した。

閏4月上旬、病床に旧幕臣望月光蔵を呼び問答の末に土方が枕を投げつけたと、後に望月の子孫が語っている。

閏4月5日に登城し、容保が労いのため酒肴を振舞う。
かつて京都守護職配下として活躍したように、再び会津と共に戦うこととなった。

 

清水屋旅館跡 清水屋旅館案内板

清水屋旅館跡
東北旅行中の吉田松陰、戊辰戦争で負傷した土方歳三、故郷を訪問した新島襄・八重夫妻と山本覚馬の娘夫婦(伊勢時雄・峰)らが宿泊した。

所在地:福島県会津若松市大町一丁目1-38(現在は大東銀行会津支店)

■■伝習隊と新撰組■■

西郷頼母邸跡と四郎顕彰碑

西郷邸から大手門を臨む

▲降伏の白旗を立てた鶴ヶ城北の大手口を西郷邸跡地から撮影
鶴ヶ城北追手前に西郷頼母の屋敷が在った。隣は萱野権兵衛邸

 

西郷頼母近悳(さいごうたのもちかのり。保科近悳)
千七百石。西郷家は元は信州高遠城主保科正直の弟三河守正勝から始まる保科氏で、代々会津家老職の家柄であった。鷹の羽の家紋の他に保科家の並九曜紋を許されていた。
頼母は文政13年(1830)閏3月24日若松追手前家老屋敷にて、江戸詰家老西郷近思(ちかし。25歳)の子四男八女の長男として生まれる。母は律子(小森家)。

会津藩江戸屋敷で大半を過ごし、天保14年(1843)14歳で初見参、側役小姓頭を勤め、22歳で飯沼粂之進の次女千重子(17歳。白虎隊で生き残った飯沼貞吉の叔母にあたる)と結婚。28歳で家督を継ぎ番頭に任じられる。

33歳で家老に任ぜられた文久2年(1862)に藩主松平容保から京都守護職任命の内意が伝えられ、会津藩の現状を汲み「御辞退あるべし」と進言したが、容保は守護職を受ける。
頼母は翌年も上洛し守護職辞任を迫ったが、家老を免職され、国に戻り下長原村に栖雲亭を営み隠栖した。

39歳、慶応4年(1868)に鳥羽・伏見の戦いの頃に家老に復職、白河口総督の任に就く。
藩の存続第一に考えた彼の性質から、兵法を修めた者の意見を跳ね除けて苦戦し犠牲を招く逸話も残るが、5月1日の稲荷山の激戦では馬を下りて自ら戦おうとするも親族の朱雀士中一番小隊飯沼時衛(白虎隊飯沼貞吉の父)の諌めでようやく退く決死の覚悟もあった。
白河方面敗戦の責により8月2日免職となるが、閉門を顧みず登城し水戸軍を率いて冬坂を守備したという。
8月23日朝、西郷邸で頼母の言いつけ通り一族21名が自刃

近悳は鶴ヶ城開城の前に藩主容保から命を受け城外に出、長男の吉十郎有鄰を伴い、米沢を経て仙台から開陽丸で大鳥圭介らと共に出航し10月20日蝦夷鷲ノ木着。
他の藩主・家老達と共に役員外江差詰として箱館戦争に参加。
捕えられる直前に、12歳の吉十郎を函館の神明宮神官の沢辺琢磨(坂本龍馬の従弟にあたる旧土佐藩士。日本初のギリシャ正教牧師となる)に託す。

明治2年(1869)5月自訴降伏。三旬ほど揚り屋(牢)に捕えられた後に東京に護送され、9月21日から翌3年2月まで上州館林藩に幽閉。
幽閉を免ぜられると東京深川の覚樹王院に弟陽次郎と住む。
雲井龍雄事件(陽次郎は獄死)での捕縛と釈放を経て、伊豆・江奈村(現静岡県松崎町江奈)に移住し、明治4年(1871)謹申学舎の塾長を務める。

明治8年(1875)に都々古別神社(現在福島県棚倉町)の宮司に就任。
明治10年(1877)西南の役がおこり、旧会津藩士は新政府軍の抜刀隊に応募する中、近悳は西郷隆盛と交遊を持っていたという。
明治11年(1878)宮司を解任させられ、翌年吉十郎が東京神田和泉町の医科大学病院で病死(享年22歳。東京西麻布長谷寺に墓所)。

51歳になり明治13年(1880)松平容保(45歳)が日光東照宮宮司に赴任すると、補佐役の禰宜として仕えることとなった。
明治17年(1884)志田家の四郎(16歳)を養子にし、青森県上北郡伝法寺のきみ女を後妻に迎えた。

その後日光東照宮禰宜を辞任し政府批判運動に加わるが、新政府弾劾の中心人物の後藤象二郎の入閣により運動は消滅。
明治22年(1889)霊山神社(福島県伊達郡)宮司となり神社と地元発展に尽す。霊山神社を訪れた武田惣角に請われて合気道大東流奥義を伝授した。
※剣術は溝口派一刀流を学び、馬術にも長じ、特に甲州流軍学の奥義を極めていた頼母は非常に小柄で足袋は僅かに九文半(22.5cm)であった。合気術は小柄でなければ奥義に達せられず、会津藩にあっては合気術は側近にある重臣と奥女中のみに教授されたと言われている。

明治26年(1893)従七位に叙される。
明治32年(1899)4月、70歳で故郷会津に帰る。
明治36年(1903)4月28日午前6時、下女のお仲(なか)と暮す沼沢邸跡の若松市栄町九番地通称十軒長屋(現会津若松市東栄町1。西郷邸跡地の北100m程)で脳溢血により没した。享年74歳。戒名は栖雲院殿従七位八握髯翁大居士。
葬儀は当時11歳の養子保科近一(きんいち)が喪主で神式でいとなまれた。

辞世は「あいつねの遠近(おちこち)人に知らせてよ 保科近悳今日死ぬるなり」
墓所は妻千重子と共に会津の善龍寺

 

西郷邸祉. 西郷頼母邸案内板

西郷邸祉
慶応4年(1868)西軍が鶴ヶ城下に押し寄せた時に西郷一族二十一人が自刃した。

 

西郷四郎顕彰碑

▲鶴ヶ城の西郷四郎顕彰碑

西郷四郎
慶応2年(1866)2月4日、会津藩士の志田貞二郎(しだていじろう)の三男として会津城下に生まれる。

幼時を津川(現新潟県津川町)で過ごし、津川小学校卒業後は代用教員などを務めた。
明治15年(1882)3月24日上京したのち嘉納治五郎(かのうじごろう)創設の講堂館に入門。四年後に五段に昇進し講道館四天王の一人と謳われ、やがて柔道創立の功労者となる。
四郎は非凡な運動神経の持ち主で、投げられても地に着くまで身をひるがえす柔軟さから「猫」と呼ばれる。後に禁じ手となった彼独自の特技山嵐(やまあらし)は養父の頼母から大東(だいとう)流武田惣角、更に四郎に手ほどきされたのが基本になっているという。

明治17年(1884)保科(西郷)頼母の養子となり、明治21年に西郷家を再興。
明治23年(1890)に講道館を去り6月21日に中国へ渡ったのち、長崎に居を構えて「東洋日の出新聞」出版責任者として副社長就任。長崎遊泳協会創立に携わるなど多方面で活躍する。
大正11年(1922)12月23日、神経痛療養中の広島県尾道市で没した。享年57歳。

柔道のみならず槍術、居合術にも秀で、弓道は奥義を極めていた四郎をモデルに夏目漱石は「坊ちゃん」に山嵐を登場させ、富田常雄は小説「姿三四郎」を発表、黒沢明監督のデビュー作としても有名である。

 

西郷邸祉
所在地:福島県会津若松市追手町

院内の「会津武家屋敷」に西郷邸をイメージして復元した家老屋敷があります

参考図書
・文化財資料室西郷頼母編集委員会『西郷頼母』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち

萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑

萱野権兵衛邸跡 萱野邸跡地看板

▲萱野権兵衛・郡長正ら萱野家の屋敷跡地付近の看板
萱野邸は北出丸向かいの西郷頼母宅の東隣に在った。
会津戦争時、父萱野小太郎長裕・母ツナ・妻のたに(35歳)・次男乙彦(郡長正。13歳)・三男虎彦(郡寛四郎。11歳)・長女りう子(9歳)・次女いし子(7歳)・五郎(4歳)は前日泊まった親戚の林権助一家と籠城協力のため三の丸に入る。

 

萱野権兵衛長修(かやのごんのひょうえながはる)
萱野家の始祖萱野権兵衛長則は加藤嘉明の重臣で会津への国替えに従い、嘉明の子の加藤明成が石見に厳封された後に入部した会津藩祖の保科正之に登用された。
以来萱野家は会津の名門として会津藩を支え、9代目が萱野権兵衛長修(ごんべい、ながのぶ とも)である。

権兵衛長修は文政13年(1830、天保元年)に生まれ、文久3年(1863)に父長裕(ながひろ)から家督を継ぎ、元治元年(1864)で若年寄、翌慶応元年(1865)に家老に就任。
国家老(くにがろう)として、藩主松平容保が京都守護職任命で在京中の間、会津での内政の責任を担った。知行千五百石。
誠実温厚な性格といわれるが文武両道に秀で、一刀流溝口派(いっとうりゅうみぞぐちは)の奥義を極めた剣豪でもあった。

慶応4年(1868)戊辰戦争中は先頭に立って激務にあたり、鶴ヶ城が包囲された後は、高久宿に布陣し城内との連絡や糧食物資補給に勤めた。
9月22日午前10時頃、会津藩主松平容保・養子の喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟。15歳)父子は大手門前の式場に出て降伏状を官軍の軍監中村半次郎(桐野利秋)に渡し、同席した家老萱野権兵衛ら重臣達の連名で、家臣の処罰の代わりに容保父子の助命を嘆願したため、容保の処遇は幽閉に留まった。

開城後は会津藩第10代藩主喜徳(慶応4年2月に家督を相続)に伴い滝沢村の妙国寺で謹慎する。
10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され東京へ出立。
容保は因州藩池田邸に入り、喜徳と重臣達は久留米藩有馬邸での謹慎となる。喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも権兵衛は常に正座していたという。

明治元年(1868)11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を許し、首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、戦争責任者の差出を求められたのである。
新政府は会津松平家の親戚であり、情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じ、正益は会津藩家老田中土佐(たなかとさ)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)を戦争責任者として選び、返答した。
田中・神保は8月の戦争中に甲賀町で既に切腹しており、死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。
このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。

権兵衛の潔さと決意に感じ入り、正益は先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
翌明治2年(1869)5月頃、政府は反逆首謀者として萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

この時青山の紀州藩邸に預けられていた松平容保の義姉・照姫保科正益の実姉)は、権兵衛へ「この度の儀、誠に恐れ入り候次第」の書き出しの手紙と共に
「夢うつつ思いも分ず惜しむぞよ まことある名は世に残れども」と歌を贈った。

また容保からも懇ろな手紙と、喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。
5月18日の処刑の日の朝、浦川藤吾に普段と変わらない様子で斬首に際して襟元などを入念に整えさせ、茶の仲間であった会津藩士井深宅右衛門重義(いぶかたくうえもんしげよし。容保の御側付)が茶を点じる。
また戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

麻布広尾の飯野藩保科家下屋敷へ移され、飯野藩大目付玉置予兵衛、隊長中村精十郎ら八人が処刑に立ち会った。
しかし保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、飯野藩士沢田武治の介錯をもって、切腹の作法通りに扇腹(おうぎばら、扇子腹とも。三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)に載せた白扇を取り上げた時に首を落す)で、政府の斬罪の要望と、権兵衛に対し会津武士の面目両方を保させた。

享年42歳(40とも)、戒名は報国院殿公道了忠居士。墓所は東京都港区白金の興禅寺と福島県会津若松市の天寧寺
介錯を務めた沢田武治の子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られたという。
また本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺をの墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

※保科邸での切腹については「飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の切腹」記事にて

 

郡長正(こおりながまさ)
萱野権兵衛の次男、乙彦。安政3年(1856)生まれ。
成績優秀で戊辰戦争後の明治3年に会津の教学復興を担い他の旧会津藩士の子弟6名と共に小笠原藩(九州の福岡県)に留学。
豊津の藩校育徳館で学ぶが、伝わる逸話によると母親に食べ物が合わないことを嘆いたことを諌められた手紙を同級生に大衆の面前で嘲笑されて(会津藩をなじられた説も)面目を潰されてしまう。
後日会津武士の誇りをかけて藩対抗の剣道試合に出場し全勝したが、屈辱を晴らすために明治4年(1871)5月1日育徳館南寮の一室で自刃した。享年16。
小笠原藩は長正の死を悼み、会津の方向に向けて長正の墓を建立。
会津には父と共に福島県会津若松市の天寧寺に墓が在る。

 

鶴ヶ城内萱野国老殉節碑 萱野国老殉節碑案内板

萱野国老殉節碑(かやのこくろうじゅんせつひ)
鶴ヶ城本丸に、天守閣を見守るように建立された殉節碑。
また阿弥陀寺(会津若松市七日町)にも萱野長修遥拝碑が建てられている。

 

・会津藩家老萱野権兵衛邸址
所在地:福島県会津若松市追手町5(現在は「蕎八かやの」店舗)
・萱野国老殉節碑
所在地:会津若松市追手町1(鶴ヶ城城址公園内)

参考図書
・『会津人群像 第6号』『会津人群像 第13号
・『歴史読本2013年07月号
・宇都宮泰長『会津少年郡長正自刃の真相
・牧野登『保科氏800年史』
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・村井弦斎・福良竹亭『西郷隆盛一代記』
・西郷頼母研究会『西郷頼母近悳の生涯』

中野竹子殉節の地碑と柳橋

中野竹子像

中野竹子(なかのたけこ)
嘉永3年(1850)3月、竹子は会津藩江戸常詰の勘定役・中野平内の長女として江戸和田倉の会津藩藩邸で生まれ江戸で育った。母考子(こうこ)は下野国足利藩戸田家の家臣生沼喜内の娘。
7、8歳の頃から中野家と同じ会津藩上屋敷に住む赤岡大助(忠良)に手習いや剣術などを学び、赤岡忠良が大坂の御蔵奉行として赴任の際、養女に懇願され共に大坂へ赴く。

その後竹子は会津の行く末を案じて中野家に復籍し、戊辰の役(戊辰戦争)の三年程前まで松山藩主板倉勝清(かつきよ)の姫君の祐筆として仕えていた。
明治戊辰の役が始まり、会津に帰国すると若松城下米代の田母神兵庫家山本家案内板の現在の若松商業高校校舎のあたりに名前が見える)の書院を借りて住む。
赤岡忠良も坂下で道場を開き、竹子も剣道の稽古に通った。

慶応4年(1868)8月23日朝、官軍が鶴ヶ城下へ侵入したと知らせを受け、母の考子(44歳)・竹子(22歳。18とも)・妹の優子(ゆうこ。16歳)らは、依田まき子(30歳)・菊子(18歳。のち水島)姉妹と岡村すま子(35歳)ら薙刀を手に、後に娘子軍(じょうしぐん)と呼ばれる婦女子隊を結成し追手門て向かう。
考子とすま子は鼠、まき子は浅黄、竹子は青味の縮(ちぢみ)、優子は紫の縮、菊子は縦縞のあずき色の、一目で女性と分かる着物を纏っていた。

しかしすでに城門は閉ざされており、藩士から「照姫(藩主容保の義姉)様は坂下宿(ばんげじゅく)に避難された」と竹子達にも西に逃げるよう促される。照姫を護ろうと河原町口の郭から坂下へ向かうが、これは誤報であった。
坂下で照姫が城内に居ることを知り、坂下宿の法界寺(ほうかいじ)の板の間で過ごす。
24日、再度入城を目指した途中で城下西北の高久(たかく。現会津若松市神指町大字高久)宿に駐留していた家老の萱野権兵衛に参戦を願い出るが婦女子の参戦は許されず、竹子たちは「許されなければ自刃する」と押し切って、越後口から転じていた旧幕府軍の衝鋒隊(しょうほうたい。幕府陸軍歩兵指図役頭取の古屋佐久左衛門指揮)に加わった。

25日早朝に七日町を目指し三方向から進軍するも新政府軍の守備兵を突破できず12時頃には高久に後退。
午後4時頃、衝鋒隊400名余が2隊に分かれて進撃、娘子軍は最後尾の義勇兵と共に越後街道を南に進んだ。
(この時の娘子軍は全員斬髪・白羽二重・鉢巻・女性物の着物に襷をし、細い兵児帯で裾を括った義経袴・脚絆に草履を紐で絞め、大小の刀をさし薙刀を持っていたと依田菊子が回想している)

夜になり、柳橋(涙橋)の北600mで長州藩・美濃大垣藩との戦いとなった。
新政府軍は相手が婦人と分かると討たずに生け捕りを命じ、娘子軍は先に殉じた家族の仇を前に生け捕りを恥じとして必死に戦ったが、ついに竹子は額(胸という説もあり)に被弾してしまう。
竹子は母考子と妹優子に介錯を頼んだ。(16歳の優子ではうまく首が切れず上野吉三郎の手伝い、農兵が切り取った説も有り)享年22歳。

娘子軍は高瀬村(現会津若松市神指町高瀬)に引き揚げ、翌日坂下の法界寺に着く。
竹子の首は法界寺の梅ノ木の根元に懇ろに埋葬された。

竹子が出陣の際に薙刀に結び付けた短冊に書いた辞世の句は
「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれは 数には入らぬ我が身ながらも」

娘子軍は萱野権兵衛に城内で負傷兵の看護其他で働くことを薦められて28日に鉄炮を持った足軽の護衛付で入城した。

 

中野竹子殉節の地碑 中野竹子奮戦の地案内板

中野竹子殉節之地碑
竹子が戦死した柳橋近くの湯川端に昭和13年(1938)建碑
所在地:福島県会津若松市神指町大字黒川字薬師堂川原(バス停「黒川」から徒歩3分)

 

涙橋 涙橋の由来

▲越後街道の湯川にかかる柳橋(涙橋)
上杉景勝の築造と刑場にちなむ涙橋と呼ばれる由来

 

新撰組記念館中野姉妹の図

▲会津新撰組記念館蔵「中野姉妹柳橋出陣の図」
(撮影可でしたので個人日記使用として掲載させて頂きました)

参考図書
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・『カメラが撮らえた会津戊辰戦争
・『会津人群像 第13号
・『歴史REAL八重と会津戦争

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
中野竹子:黒木メイサさん
中野コウ(考子):中村久美さん
中野優子:竹富聖花さん
が演じています

大龍寺[1]山本家の菩提寺

大龍寺山門 大龍寺本堂

大龍寺(だいりゅうじ)山門と本堂

宝雲山大龍寺
社伝によると松本深志城(ふかし。長野県松本城)城主で礼法小笠原流の祖といわれる小笠原長時(おがさわらながとき)の菩提寺として天正11年(1583)に創建された桂山寺に始まり、寛永20年(1643)に会津藩祖の保科正之が最上(山形県)から会津へ移った際に帰依し、翌年現在の寺号となる。

 

山本家の墓所 山本家墓所案内板

▲新島八重の先祖6人が眠る山本家之墓所

八重の実家、山本家は八重の高祖父(曽祖父の父親)の時から大龍寺を菩提寺としていた。
八重は亡くなる前年の昭和6年(1931)にここに訪れ、山本家の墓を一カ所に合祀して墓標を建立。
墓標の表には八重直筆の「山本家之墓」、裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれている。

この時八重が詠んだ和歌2首が徳富蘇峰記念館(とくとみそほう。新島襄や山本覚馬、他各界著名人が徳富蘇峰に宛てた多くの書簡を展示。神奈川県)で見つかった。

山本家墓所の八重直筆墓標 墓参時の句

「たらちねの御墓のあとをとふことも今日かぎりとなくほととぎす」
「若松のわが故郷に来てみればさき立つものはなみだなりけり」

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

 

大龍寺には小笠原長時夫妻と娘の墓や、山本覚馬が従った軍事奉行兼大砲隊長林権助安定(やすさだ)等、会津藩士族の墓が有ります。