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大龍寺[2]林権助(安定)墓所

大龍寺山門

大龍寺(だいりゅうじ)山門

 

林権助 安定(はやしごんすけ やすただ)
文化3年(1806)会津藩士林権助(安論)の子として生まれる。家禄三百五十石。
はじめ又三郎といい、長じて馬術と槍を得意とし江戸詰めで江戸藩邸の警備にあたる。

嘉永6年(1853)蘭学や砲術を学べる江戸へ、山本覚馬(かくま)を同行させる。
安政2年(1855)天保の改革の失敗で失脚した老中水野忠邦藩邸を包囲した騒ぎを鎮めて名声を高めた。

文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)に従い京へ上洛し、洛中の子弟から洋式の大砲隊を編成して鍛え、軍事奉行兼大砲隊長となる。
この時火縄銃が主流で槍術を自負する会津藩内では様式訓練を毛嫌い(砲術師範の山本覚馬(かくま)も様式銃導入を求めて禁則処分を受けたことがある)
吉田山から鴨川見れば 御髭大将かけ廻る
と「おひげの隊長」などと軽々しく呼ばれたが、禁門の変では大砲を率いて、天王山の真木保臣(まきやすおみ)を追撃し大いに活躍した。

慶応2年(1866)将軍徳川家茂(いえもち)の薨去、孝明天皇の崩御で公武一致の国是は破れ、会津の形成は不利になった。
慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜(よしのぶ)が政権返上、西南雄藩主導での王政復古大号令が発せられ慶喜の辞官と納地が決まると、旧幕臣や桑名・会津藩の反発による京での武力衝突を危惧した慶喜は旧幕府側の兵を引き連れ大坂城に移った。

慶喜の警固をめぐって水戸藩と新撰組が対立、薩摩藩の江戸での暴挙や二条城に攻め入るなど風説・攪乱交錯が飛び交い、新政府と旧幕府の衝突は避けられず、慶応4年(1868)正月2日に大砲隊を率いる権助ら会津藩兵300人、新撰組、旧幕府の歩兵隊や京都見廻組(みまわりぐみ)ら総勢1500人は京都を奪還すべくと共に伏見に向かう

3日の朝に薩摩・長州・土佐藩は各所に兵を進め、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
会津軍の主力は京の南南東に通じる伏見街道を進むべく伏見街道に集結し、表御門・伝習隊が北の御門・新撰組は裏手を警備した。

午後五時頃、京の南南西へ通じる鳥羽街道上の下鳥羽と上鳥羽間で入京しようとする旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が各方面に響き渡り開戦となる。

権助の大砲隊は開戦直後に砲撃を受け、権助は伏見奉行屋敷の北門を開いて薩摩兵に大砲3門で撃ち返す。
新撰組は裏の庭から一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えた。
別撰組・上田隊が会津軍の応援に駆け付けたが薩長軍の大砲は破裂する焼玉で火災や負傷者が増えていき、砲撃戦は深夜まで及ぶが勝敗は決しなかった。

突撃した会津槍隊は銃弾で撃たれていく。権助は槍をもって突進し敵を蹴散らしたが、銃撃8発を受けて重傷を負う。
しかし最後まで兵を叱咤激励し、あとで助け出されて後方へ退いた。
4日午前1時頃に淀城下へ退却。
朝になり新政府軍が鳥羽・伏見両街道から淀城下に向けて進撃開始。旧幕府軍は劣勢の中、林砲兵隊・大砲奉行白井五郎大夫率いる大砲隊130人余・佐川官兵衛(さがわかんべえ)率いる別撰組(べっせんぐみ)両隊・掘隊が食い止め、淀の北東4キロの下鳥羽まで押し戻した。白井隊の奮戦すさまじく「勇なるかな会津の白足袋」と白井隊の味方識別の足袋をさして称えられた。

5日に伏見街道の堤上を前進する新政府軍に、林砲兵隊・佐川隊が援護射撃のもと刀槍での白兵戦を挑むが、正午過ぎに各方面崩される。淀城に拠って立て直そうとするも突然新政府軍についた淀(稲葉)藩に拒否され、淀大橋から南方に退却。
この日、別撰組配下で参戦していた山本三郎が、淀城の川の対岸方面の八幡(京都府八幡市)で負傷兵の救助中に銃で撃たれる。

江戸で小野派一刀流を極意を極め、江川塾で砲術を学んでいた権助の一子、又三郎(安儀)も鳥羽伏見の戦にかけつけて戦い、父が重傷を負ったと聞くと佐川の別撰組に入る。しかし敵陣に斬りこもうとした時に胸部を撃たれて絶命した。

6日夜に慶喜が、会津藩主松平容保をつれて密かに江戸へ帰ったことが戦線の将兵達に伝えられると、彼らも紀州を経て汽船で江戸へ向かった。
権助の傷は深く、3日後に紀州沖で絶命した。享年63歳。
江戸に運ばれた山本三郎も16日に会津藩中屋敷で事切れた。三郎の訃報と形見の紋付は3月に会津の山本家に届けられる。

又三郎の子で権助(安定)の孫にあたる磐人(いわと。林権助の名を継ぐ)は9歳で家督を相続し、鶴ヶ城下に新政府軍が進軍した時は祖母の実家の萱野権兵衛宅に泊まっており、萱野家の婦女子達と三の丸に入り鶴ヶ城籠城戦を体験する。戦後は薩摩藩士の援助を受けて東大政治科を卒業。外交官となって英国大使などを勤め、男爵を授けられた。

 

林権助安定墓所 林氏合葬の墓

▲林氏合葬の墓、左右に林安定・又三郎(安儀)親子の墓がある

・権助が目にかけていた山本覚馬、覚馬や新島八重の弟の三郎ら山本家の墓
 →大龍寺[1]山本家の菩提寺

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

参考図書
・『歴史読本2013年07月号
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・木村幸比古『新選組日記
・『近代日本に生きた会津の男たち』稲林敬一「林権助」※磐人

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
林権助:風間杜夫さん
山本覚馬:西島秀俊さん
山本三郎:工藤阿須加さん
佐川官兵衛:中村獅童さん
松平容保:綾野剛さん
徳川慶喜(一橋慶喜):小泉孝太郎さんが演じています

新選組殉難地「如来堂」

如来堂 如来堂周辺

如来堂山口次郎(二郎。斎藤一)ら新選組隊士が戦った地

 

慶応4年(1868)8月21日、新撰組・反政府軍は母成峠の戦いで敗れて猪苗代に撤退。
土方歳三(母成峠の戦いに直接参戦はしていない)は滝沢峠から十六橋を渡って22日に鶴ヶ城に入り、母成峠の敗戦を報告。
奮戦した山口も残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道(日橋)を通って入城し戦況を報告した。

夜、中島登ら新撰組半隊は天寧寺に泊まり、山口ら新撰組14人と伝習隊等歩兵達合わせて38名は鶴ヶ城下の宿に泊まる。

23日に新政府軍が鶴ヶ城下に押し寄せて以降外からの増援を遮断したため、巧みに包囲をかわした山川大蔵(日光口で善戦後に駆けつけ、彼岸獅子を舞わせて官軍を欺き26日入城)等しか籠城戦へ加勢できず、城門も固く閉ざされ会津藩士以外の入城が叶わなかった。

そして大鳥圭介ら旧幕府軍、新撰組、前桑名藩主松平定敬(さだあき。前会津藩主松平容保の弟)率いる桑名藩兵等は若松北方10キロにある米沢口塩川村に転陣。大塩宿に移動、新撰組約千人が集結。

25日に土方は援軍を求め米沢庄内へ向かった。

隊士達は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」と主張する山口ら誠を貫こうとする残留派と、土方の意向である仙台行を主張する新撰組副長の安富才助達は話し合いの末、互いを尊重しあって分かれたという。

26日、山口らは塩川に移り斉藤忠兵衛宅を本陣とする。
9月2日、山口らは長岡藩兵と共に陣ヶ峰峠(喜多方市)付近で戦闘。

3日土方、庄内藩が新政府軍に恭順したために仙台へ転じる。

4日、山口らは木曾(喜多方市山都)で新政府軍と2時間もの戦闘となるも敗れる。
その後、旧幕府軍衝鋒隊と合流するため鶴ヶ城の北西4キロ、神指(こうざし)城二ノ丸跡の南西に位置する如来堂へ向かうが、衝鋒隊は既に移動していた。

5日、山口らは旧幕府軍衝鋒隊に代わり守備につくが、只見川で越後口官軍と対峙する会津兵の背後をつくために高久に向け出動した薩摩・土佐・肥後等新政府軍の進路である如来堂本堂が戦地となる。
後に新撰組隊士中島登(土方歳三に従軍)の描いた肖像画によると如来堂の隊士は13名程しかおらず、壊滅。
名前の判明している隊士は山口次郎・新井破魔男・池田七三郎・小幡三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・高橋文二郎・高橋渡・吉田俊一郎

しかし山口次郎・池田七三郎・河合鉄五郎・粂部正親・清水卯吉・志村武蔵・吉田俊一郎の7名は生き延び、その後も新政府軍に対してゲリラ戦を仕掛けている。

9月8日籠城中の会津藩は頼れず、弾薬補給と負傷者の治療ができないため大鳥率いる伝習隊・衝鋒隊ら旧幕府は小田付代官所(喜多方市)も会津を離れることを決意した。

 

新選組殉難地碑 新選組殉難地碑裏

如来堂(にょらいどう)
所在地:福島県会津若松市神指町如来堂

■■伝習隊と新撰組■■

旧滝沢本陣

松平容保パネル 旧滝沢本陣跡

松平容保旧滝沢本陣
容保公画像は会津新撰組記念館パネル。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました
戊辰の役での本営となった滝沢本陣(たきざわほんじん)は、江戸へ通じる旧白河街道筋に位置し歴代藩主の参勤交代や領内巡視、藩祖保科正之を祀る土津神社参詣などの際の殿様の休息所として使用された。

 

慶応4年(1868)白河口を完全に押さえた新政府軍は7月29日に二本松城を陥落させた。
8月17日に列藩同盟軍が奪回を試みるも失敗。これまでに新潟と越後口の戦いで勝利を収めた新政府軍は会津総攻撃へ向かう。
8月20日に二本松を発ち、約三千の兵を母成峠(ぼなりとうげ。現福島県郡山市、猪苗代町の境)に投入。

対する会津は街道の要所である勢至堂口に会津藩家老内藤介右衛門率いる主力を配置。
次に相馬・仙台への本道山中口に重点を置き、母成口は手薄で猪苗代城代田中源之助隊はじめ旧幕・二本松兵合わせて300に過ぎなかった。

北関東から転戦してきた伝習隊の大鳥圭介が、本松城に集結する新政府軍の動きを見て母成口の増強を具申するが、会津藩は勢至堂口に拘り聞き入れられなかった。
母成口の兵と伝習隊、山口次郎(二郎。斎藤一)率いる新撰組合わせおよそ900人で守備する。

21日午前6時、新政府軍は玉ノ井から三隊に分かれて進み、母成峠東から白河口総督府参謀伊地知正治(薩摩藩)・板垣退助(土佐藩)隊の右翼隊・石筵から中央隊が大鳥隊を砲撃し、大鳥隊を後退させる。
合流した右翼・中央隊が大砲二十数門を一斉射撃し、大鳥隊は大敗。猪苗代へ撤退する。
新撰組も伏兵に遭い四散したが、山口は酸川野(すかわの)で伝習隊の大島寅雄の後送を助け、七連発銃で防戦したという。途中退却行を共にした二本松城藩士黒田伝太とはぐれ、猪苗代に至る。

戦の後に奥羽越列藩同盟の藩・庄内と榎本武揚と合流できる仙台に向かうことを決めていた土方歳三(兵の要請手配のためか母成峠の戦には直接参戦していない)と、戦に参戦し引き続き会津を護ろうとする山口が意見が分かれ(もしく協議の上で)、土方は新撰組主力を大鳥圭介に託し庄内へ。
山口ら13人、兵卒合わせ20人程は会津に残ると決めた。
猪苗代城城代の高橋権太夫は亀ヶ城(猪苗代城)を焼き若松城下に向かう。

22日に土方は滝沢峠から鶴ヶ城に入り、山口は残兵をまとめながら猪苗代から大寺街道を通って入城し、母成峠の敗戦を報告。
前会津藩主松平容保は救援のため自ら残存兵を率いて出陣し滝沢の郷頭横山宅に本陣を構えた。
滝沢本陣には容保付添の会津藩士の他、容保の弟前桑名藩主の松平定敬(さだあき)や飯野藩士らも集った。

16、7の少年で結成される白虎隊のうち士中一番隊は会津藩主松平喜徳(のぶのり)と城へ残り、容保の身辺警護には土中二番隊があたった。

この時新政府軍は、総督府隊左翼の薩摩四番隊に属する川村純義隊が、猪苗代湖北西日橋川にかかる十六橋(会津への架け橋となる要所)へ向かい、橋を壊そうとしていた会津兵に一斉射撃を浴びせ戸ノ口まで前進していた。
戸ノ口原守備の為、白虎士中二番隊にも出動命令が出された。

またこの時、土方も滝沢本陣に訪れているという。

 

旧滝沢本陣(旧滝沢本陣横山家住宅)
所在地:福島県会津若松市一箕町滝沢122

 

会津若松駅白虎隊士の像

▲会津若松駅の白虎隊士の像

■■伝習隊と新撰組■■

新撰組と飯野藩士の共闘

阿武隈川 柏野

▲白河の戦地を流れる阿武隈川と柏野の野辺
柏野の村々は土佐兵により焼き払われてしまった。会津救援のために戦った、北辰一刀流千葉周作道場の四天王と呼ばれた森要蔵と飯野藩の脱藩士達は会津藩士の戦死者と共に阿武隈川岸、西郷村の大龍寺に眠る。

 

慶応4年(1868)6月12日 新撰組は上田八郎右衛門の「朱雀三番士中隊」、土屋鉄之助の「新練隊」、総督原田対馬の隊と合兵して雷神山より入道山・米(よね)まで進軍し官軍を散らす。
しかし米の北西にある熊倉口の友軍が敗走して戦況が変わり、新撰組は雷神山を引き揚げ柏野村・阿武隈川岸の台場で交戦。

やがて新政府軍の援兵が平潟港(ひらかた。茨城県北茨城市)に上陸し24日官軍参謀板垣退助率いる薩・長・土・大垣・黒羽部隊が棚倉城を陥落し東軍は勝機を失う。

7月1日 会津・仙台・二本松軍は熊倉口方面へ出撃。山口次郎(二郎、斎藤一)ら新撰組と森要蔵ら上総飯野藩(脱藩)兵は柏野逢隈(おおくま)川の塁を発して、雷神山の西軍を撃つ。
しかし官軍の援兵により砲撃に晒され、山口達は羽鳥野まで引き揚げて休戦。土佐軍は旧幕府軍の屯営地の村々や、拠点になり得る集落を焼き払った。
森要蔵親子ら飯野藩士5名戦死。
これ以降、新撰組の白河口での出陣記録は発見されておらず、土方歳三の戦列復帰に合わせ白河から最前線へと移動したとみられる。

7月28日に残敵掃討に出陣した土佐兵に会津兵は抗戦するも撤退し、この地での戦闘は絶えたという。

戊辰見聞館パネル

米方面の地形概念図は戊辰見聞館パネルより。撮影可でしたので個人日記に利用として掲載しました

■■伝習隊と新撰組■■

※伝習隊・新撰組と共に戦った飯野藩士達、大龍寺の墓については別途記事にします

稲荷山[2]5.1白河口激戦

立石山方向 白河口戦の案内板

稲荷山・慶応四年五月朔日白河口戦闘図(官軍白河攻撃要図)
西郷頼母は西軍主力部隊が進軍する奥州街道の関門にあたる要所の稲荷山に兵力を集結させ応戦。だが雷神山・立石山方面に進む西軍別働隊(写真は立石山方向)が両方面を攻略し、包囲された稲荷山が集中砲火を受け壊滅。

 

慶応4年(1868)5月1日未明、新政府軍が正面部隊を稲荷山・東翼部隊を雷神山・西翼部隊を立石山方面の3方向に分けて侵攻し各方面激戦となる。

小雨の降る中、新撰組達は稲荷山に登り邀撃するも、西軍中央隊が小丸山に大砲4門を据えて激しく発砲。
自ら戦線に出て采配を揮った副総督横山主税(常守)が新政府軍の銃弾に斃れ(享年22歳)、遠く北方の勢至堂宿(須賀川市)まで退却した。
新撰組では伊藤鉄五郎(伊東)が討死。
火力と統率力の差で旧幕府軍は白河戦最大の約700名の死傷者を出したといわれる。
昼過ぎに新政府軍が小峰城奪還。

2日に新撰組らは勢至堂宿から三代宿に移動し米沢兵の援軍と合流。後に飯土用(いいどよ)か上小屋(かみごや。共に白河市)に前進し26日大谷地(おおやぢ)を経て会津・米沢兵と共に城下から襲撃。六反山方面で銃撃になるも会・米軍の多くが火縄銃装備だったため豪雨により作戦を中止し上小屋まで撤退。

27日米沢軍先発で会津遊撃隊・会儀隊・砲兵二番隊と共に白河口を目指し出陣、正午から金勝寺・六反山で交戦。背後から挟撃され夜に敗走。官軍は大谷地会津屯営に火を放つ。

牧之内村に駐在していた新撰組隊士達は、福良宿に出陣していた会津藩主松平喜徳(のぶのり。徳川慶喜の実弟で容保の養子となる。15歳)に呼び出され、6月3日に拝謁。
福良には土方歳三も来ていた。
6月6日福良を発ち羽太村より白河城下北西部へ向かう。

 

西郷頼母歌碑 西郷頼母歌碑案内板

▲激戦地となった稲荷山に佇む西郷頼母歌碑
「うらやまし 角をかくしつ又のべつ 心のままに身をもかくしつ」

■■伝習隊と新撰組■■