会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

鶴ヶ城天守閣 鶴ヶ城案内

鶴ヶ城天守閣

慶応4年(1868)8月23日明け方に新政府軍は戸ノ口原の会津軍を攻撃し、会津軍は防戦しきれずに後退。
新政府軍が鶴ヶ城(若松城)下に進撃する折に、滝沢本陣の松平容保は馬に乗り出陣しようとするが家臣に諌められ、若松城下大手口の甲賀町郭門へ向かった。

北出丸側甲賀口方面 北出丸

▲甲賀口方面、手前に北出丸

城下北側の入口、蚕養(こがい)口の手前では国産奉行河原善左衛門率いる一隊が防戦するも河原隊長らの戦死により退却。新政府軍は甲賀町郭門に迫った。
郭門内で指揮をとっていた容保は、家老田中土佐・神保内蔵助に任せて帰城し、出迎えた白虎士中一番隊が防衛を命じられ郭門内東側の三宅宅に拠り応戦した。
間もなく東隣の六日町から新政府軍が進入して甲賀口が破られ、隊士達は土手沿いに退却。このうちの一団が愛宕山で自刃しようとした所を味方の兵に諌められて思いとどまり入城を目指した。
(戸ノ口原に参戦した白虎士中二番隊のうち十九名は飯盛山で自決する)

薩摩・長州・土佐兵は甲賀口から南方700mの鶴ヶ城北出丸に接近し砲撃を加えたが、城内からも城壁の銃眼から撃ち返して新政府軍の将兵達を死傷させた。
しかし新政府軍の急迫によって入城や避難できなかった、あるいは自らの意志でしなかった会津藩士の家族たちが自刃して果てた。(なよたけの碑に戦病者含めた230余名の氏名が刻まれている)

城内では容保・喜徳父子が黒鉄門(くろがねもん)内へ御座所を設えて指揮をとり、小室金吾左衛門を頭の兵を迎撃にあたらせ、更に山浦鉄四郎の一隊を共に西方へ出撃させた。天神橋の戦によって犠牲を出しながらもこの方面は9月まで会津側に確保される。

※この日の朝、山本八重(この時24歳)の家では寄宿の米沢藩士内藤新一郎が戦況を伝える為に米沢へ向かう。
母佐久と兄嫁うら達は近隣の村に避難し、八重は鳥羽・伏見の戦で戦死した弟三郎の形見を身に着けて、七連発元込めのスペンサー銃を背負い鶴ヶ城に籠城することを決めた。入城後に八重は高木時尾に断髪を頼む。

黒鉄門側 廊下橋

▲走長屋と黒鉄門、八重が入城の際に渡ったという廊下橋

25日早朝、猪苗代湖北西方面に出陣していた萱野権兵衛率いる隊が西部から入城を図るが、新政府軍の守備が固く留まる。越後方面から退いてきた旧幕郡の衝鋒隊と共に再度挑んで兵の一部が入城。※この時娘子軍が同行し中野竹子戦死
鶴ヶ城天守から南東1360mの小田山を新政府軍が占拠。

西出丸 西出丸2

▲西出丸

26日、日光方面の山川大蔵の部隊が彼岸獅子を先頭に立てて西追手門(西出丸から北側に出る搦手門)から入城。
新政府軍側は小田山にアームストロング砲一門を含む大砲を運び上げた佐賀藩が天守めがけて砲撃開始。三斗小屋の西軍は野際に到る。
27日会津藩大砲隊士の戸枝栄五郎・鯨岡平太郎・川崎尚之助らが鶴ヶ城南の豊岡神社から四斤山砲で小田山を砲撃。

鶴ヶ城から小田山方面 小田山からの鶴ヶ城

▲天守閣からの小田山方面と、小田山から肉眼視野に合わせて撮った鶴ヶ城

28日、日光口の芸州藩などの西軍が山王峠を越え、糸沢村に到る。
29日朝に糧道確保のため総督佐川官兵衛以下約1000名の兵が濃霧に紛れて城外へ出撃。新政府軍が駐屯する北西1.5kmの長命寺を目指す
芸州藩は糸沢より田島に進む。融通時寺町で戦闘。
30日に新政府軍は大内に宿陣。

9月1日三斗小屋の西軍は音金に達す。大内峠の戦。
2日関山の戦。八十里越の新政府軍は叶津に到着。
3日大内峠より栃沢にて激戦。新政府軍が再び関山を攻める。
4日、日光口から進撃してきた新政府軍の兵が鶴ヶ城西南3kmの飯寺(にいでら)に到着。
神保平八郎率いる青龍三番寄合組の防戦むなしく新政府軍は城下南端の住吉神社まで迫るが、河原町に本営を置いていた佐川官兵衛が砲兵隊を向かわせて撃退。
※この日、米沢藩が新政府に帰順し、新政府軍は小田付村に民政局を置く

5日早朝、高久(たかく)に着陣していた萱野権兵衛率いる会津軍が新政府軍に攻撃され北東6kmの塩川に退く。
6日越後口の西軍が坂下・塔寺・柳津に到る。
8日、塔寺方面から退却した会津軍、本木信吾の青龍隊と水戸兵や山本帯刀(たてわき)率いる長岡兵が共に飯寺の新政府軍を攻撃するも果たせず、濃霧で敵を誤認した長岡兵が捕えられ斬首された。
※この日、明治と改元
9日、佐川隊が田島陣屋を奪回する。

10日、越後口からの新政府軍が小荒井(現喜多方市西部)まで進み、西郷刑部隊や町野主水率いる朱雀四番士中隊は安勝寺に拠って防戦。後に雷鳴戦争と称されるほど銃声のみが激しい戦いであったという。塩川に退いた萱野隊も呼応し守備に就く。
11日未明に来襲した新政府軍の松代・岩国・越前兵を撃退するが、米沢藩が新政府に帰順したため背後を衝かれる危険性を避けて会津軍は鶴ヶ城南方の一ノ堰(いちのせき)へ向かう。

14日早朝に鶴ヶ城内へ総攻撃が決行された。小田山に据えたアームストロング砲、メリケンボート砲、従来の山砲等15門の大砲の砲撃を合図に、城の西北の諏訪神社付近で長州・大垣・土佐三藩による攻撃が行われた。
鶴ヶ城下では北西から南にかけての外郭の桂林寺町口・融通寺口・川原町口・花畑口・南町口を攻撃。
西出丸を守る郡上藩の凌霜隊や再編された白虎隊士中隊は南町口まで進み出て防戦したが、小山田からの砲撃を受けて西出丸へ戻っている。
少数の兵で善戦していた諏訪神社方面の会津軍も三方から挟撃され城内へ退いた。
昼夜を通しての砲撃で述べ2500余発が発射されたといい、籠城していた会津兵及び婦女子の死傷者が多数出た。
会津側では豊岡社より川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)が小田山へ撃った砲弾が小田山の敵陣に命中したという。
夜半に城外の北方・塩川方面にいた会津藩越後口総督一ノ瀬要人(いちのせかなめ)率いる兵と、北西・中荒井周辺にいた陣将萱野権兵衛率いる兵が一ノ堰周辺に移動。

豊岡社跡 豊岡社から小田山を臨む

▲川崎尚之助が反撃した豊岡神社跡地と付近から小田山方面を撮影

15日会津軍の動きに応じて新政府軍が高田方面の補給路を断つため鶴ヶ城南方の青木・中野・徳久周辺の会津軍を攻撃するが果たせず引きあげる。
一ノ瀬隊は戦いに勝利したが、総督一ノ瀬が重傷を負い、隊長西郷刑部、大竹主計(かずえ)、原早太(そうた)などの将が戦死した。
この日、会津藩では降伏交渉のため藩士手代木直右衛門(てしろぎすぐうえもん)と秋月悌次郎(あきづきていじろう)を米沢藩の陣地に赴かせた。
16日新政府軍八十里越支隊が藤江・沼ノ平に着く。

17日朝8時頃、小田山と飯寺の新政府軍が再び一ノ堰まで進撃。白虎一番寄合組隊・砲兵隊・玄武士中隊・朱雀二番寄合組隊等が防戦するが後退し3km程後方の雨屋村で反撃、青龍三番士中隊・朱雀四番士中隊などが追撃に移る。
新政府軍を後退させたが、総督一ノ瀬が15日の戦傷により死亡し、残された兵団は鶴ヶ城南西8kmの福永へ集合した。この戦いで山本八重の父、玄武士中隊の山本権八が戦死。

18日早朝に新政府軍が高田へ出撃、佐川官兵衛の隊は包囲される前に撤退し大内へ転陣しており、これに応じて福永の会津兵も大内へ向かう。
※この日、棚倉藩が降伏

19日、会津藩手代木・秋月らが米沢藩を通じて土佐の本営に降伏願書を提出。
20日、板垣退助は降伏願書を受諾し、会津藩降伏の交渉がまとまる。
21日、新政府軍からの発砲停止。松平容保、将士に開城を諭す。開城の令の文を見て自害する藩士もあった。
この日、容保の義姉の照姫が小切れを集めさせて長さ三尺(約90cm)・幅二尺(約60cm)の降伏の旗を作ったという。

白旗 明治五年鶴ヶ城天守閣

▲大手先の正門前・黒鉄門・他一カ所に白旗を掲げた

22日午前10時、鶴ヶ城大手前の西側石橋の欄干に「降参」と大書された旗が立てられた。
容保・喜徳父子が内藤家・西郷家の間の武場(本一丁目と甲賀町通りの交差点)に臨み、総督府宛てに降伏謝罪の書を提出した。その後容保は、戦死者を投げ入れた二の丸の大空井戸に香花を供えて忠魂を礼拝した。容保らは新政府軍に滝沢の妙国寺に護送されて謹慎する。
開城時に城内の人員は約五千名程だった。
この日山口村で佐川隊が新政府軍を撃破。
この夜12時頃に、山本八重が三の丸雑物倉の壁に歌を笄で刻む。
明日の夜は何処(いずく)の誰か眺むらん 馴れし御城(みそら)に残す月影

八重の歌 三の丸壕跡

▲八重の歌・三の丸濠跡

23日、城内の将兵が謹慎地の猪苗代に向け出発。
老幼女子は現在の喜多方方面、傷病者は城南の青木村に移された。
※この日、庄内藩降伏
24日午後、若松城引き渡しが行われた。

会津南部では佐川官兵衛率いる会津軍の戦闘が続行されていたが、25日に若松から正式な降伏状が届き、26日に大内の部隊が解隊。続いて田島や伊南方面の諸隊も帰順し、謹慎所の塩川へ向かった。

※参考図書は川崎尚之助伝習隊関連記事に同じ

会津武家屋敷[2]

会津武家屋敷 家老屋敷案内板

▲家老屋敷
会津武家屋敷には家老屋敷(西郷頼母邸)の他に歴史ある建物が再現されています

中畑陣屋の生垣 旧中畑陣屋

旧中畑陣屋主屋(重要文化財)
中畑陣屋(藩政時代の役所)は天保8年(1837)に西白河郡矢吹町中畑に建てられ、徳川幕府直参五千石の旗本、松平軍次郎の代官所として中畑村等七ヶ村を支配していました。
この東北に残った最後の代官陣屋を会津武家屋敷の敷地に復元移築したものです。

 

嶺南庵 茶室の説明

▲数奇屋風茶室嶺南庵(れいなんあん)麟閣
会津領主蒲生氏郷の庇護を受けた、千利休の子の少庵(しょうあん)が鶴ヶ城本丸に造った茶室「麟閣」を再現したものです。

 

西郷四郎像 西郷四郎案内板

▲家老屋敷の傍らには頼母の養子の西郷四郎像があります
西郷家を再興し、山嵐(やまあらし)という得意技で無敵を誇り、小説姿三四郎のモデルとなった天才柔道家です。
保科(西郷)頼母との縁に従って家老屋敷の門前に四郎の像が建立されました。
※鶴ヶ城に西郷四郎顕彰碑があります

 

会津武家屋敷サイト:http://www.bukeyashiki.com/
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字院内1番地

余談ですが、バス停のそばに自販と軽食屋利用者用の野外テーブルが有るので、バスの接続にも便利なスポットです。

会津武家屋敷[1]復元西郷頼母邸

会津武家屋敷入口階段の上に冠木門 会津武家屋敷案内板

会津武家屋敷
鶴ヶ城追手門前にあった会津藩家老西郷頼母邸を復元。
戊辰戦争で武具・家財と共に焼失してしまった会津の武家屋敷の様子を、信州高遠(たかとお)に現存する武家屋敷の遺構を勘案しながら再現し、会津天満宮(西郷邸に在った)等ゆかりの建物を配して、藩米精米所、旧中畑陣屋(重文)、麟閣を再現した茶室、白壁土蔵造りの資料館・くらしの歴史館・西郷一家自刃の場が再現された第二資料館等を備えた歴史散策ゾーンと
会津物産ショップと会津郷土料理亭、室井東志生の仏画を展示する美術館・青龍などが併設されている屋外博物館(ミュージアムパーク)です。
坂本龍馬を斬ったという京都見廻組与頭の会津藩士佐々木只三郎の墓もここに移されました。
 

家老屋敷 家老屋敷見取り図

▲復元された家老屋敷・西郷頼母邸
西郷家は会津藩松平家譜代の家臣で代々家老職を勤めた千七百石取りの家柄でした。
約4000坪の面積、けやき・ひのき・杉材を使った和様建築の復元家老屋敷面積は280坪、。8室で畳の数328枚。
冠振ぐしに九曜紋をつけた鬼瓦は格式高い西郷家ゆえに許された特権だそうです。

表門 式台玄関

▲九曜紋を掲げた表門式台玄関
片長屋に沿って行くと上級武士だけが通される四脚(しきゃく)表門があります。
式台玄関は家老屋敷の正面に位置する表玄関。

御成御殿 御成の間

御成御殿御成の間
藩主はじめ重役以外は通されることがなかった格式の高い部屋です。
御成の間は藩主の御成りになった(来訪)時だけ使用された部屋で、人形は中央が松平容保、手前に西郷頼母が控えています。

書院壱の間 厠の内部

書院壱の間、御成御殿専用の砂雪隠(すなせっちん)
上に武家屋敷守護。
厠(かわや。トイレのこと)の中は畳敷きで、床下には砂を敷いた箱車が木製レールの上に置かれており、使用する度に箱車を引き出して健康状態を調べた後に砂ごと後始末するそうです。

使者の間 奥一の間

使者の間奥一の間
鎖の間~使者の間は西郷家臣が執務や警備に使用。
奥一の間・奥二の間は家族が使用する部屋。書院造りの奥一の間は家老の寝室として使われ、写真の人形は父の寝室で遊んでいる子供達を母の千重子が叱っている場面です。

風呂場 子供部屋

風呂場子供部屋・化粧の間
家族が使用した檜造りの風呂で、火災予防の為に竈が無いので邸内で唯一火を使える裏手の台所で湯を沸かし、手桶で運んだそうです。半開きで外に出ているのが、窓の重さで自然に締まる突出し窓。
子供部屋は長男は家督を継ぐことから板の間がある右側の部屋を与えられ、次男以降は中央の部屋を一緒に使用したそうです。化粧の間は頼母の妻千重子が化粧や身支度を整えた部屋。

奥玄関 台所

奥玄関台所
奥には使用人が使う部屋。台所では数十人の食事を作り、天井の無い吹き抜けで、雪に耐える太い柱で支えられています。台所がパーク内施設としてお土産屋さんになっているのが面白いですね。

幕米精米所内部 白河藩小峰城址賄所

幕米精米所白河藩小峰城址賄所の略図
今から二百年前の文化10年(1813)頃造られ、白河藩で使用されていた、直径4mの水車・16個の石臼で四斗俵(約60キロ)の玄米を一日に16俵精米できる東北一の精米所が移築されています。

会津武家屋敷サイト:http://www.bukeyashiki.com/
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字院内1番地

※続き→会津武家屋敷[2](旧中畑陣屋等)

大龍寺[2]林権助(安定)墓所

大龍寺山門

大龍寺(だいりゅうじ)山門

 

林権助 安定(はやしごんすけ やすただ)
文化3年(1806)会津藩士林権助(安論)の子として生まれる。家禄三百五十石。
はじめ又三郎といい、長じて馬術と槍を得意とし江戸詰めで江戸藩邸の警備にあたる。

嘉永6年(1853)蘭学や砲術を学べる江戸へ、山本覚馬(かくま)を同行させる。
安政2年(1855)天保の改革の失敗で失脚した老中水野忠邦藩邸を包囲した騒ぎを鎮めて名声を高めた。

文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)に従い京へ上洛し、洛中の子弟から洋式の大砲隊を編成して鍛え、軍事奉行兼大砲隊長となる。
この時火縄銃が主流で槍術を自負する会津藩内では様式訓練を毛嫌い(砲術師範の山本覚馬(かくま)も様式銃導入を求めて禁則処分を受けたことがある)
吉田山から鴨川見れば 御髭大将かけ廻る
と「おひげの隊長」などと軽々しく呼ばれたが、禁門の変では大砲を率いて、天王山の真木保臣(まきやすおみ)を追撃し大いに活躍した。

慶応2年(1866)将軍徳川家茂(いえもち)の薨去、孝明天皇の崩御で公武一致の国是は破れ、会津の形成は不利になった。
慶応3年(1867)12月9日に徳川慶喜(よしのぶ)が政権返上、西南雄藩主導での王政復古大号令が発せられ慶喜の辞官と納地が決まると、旧幕臣や桑名・会津藩の反発による京での武力衝突を危惧した慶喜は旧幕府側の兵を引き連れ大坂城に移った。

慶喜の警固をめぐって水戸藩と新撰組が対立、薩摩藩の江戸での暴挙や二条城に攻め入るなど風説・攪乱交錯が飛び交い、新政府と旧幕府の衝突は避けられず、慶応4年(1868)正月2日に大砲隊を率いる権助ら会津藩兵300人、新撰組、旧幕府の歩兵隊や京都見廻組(みまわりぐみ)ら総勢1500人は京都を奪還すべくと共に伏見に向かう

3日の朝に薩摩・長州・土佐藩は各所に兵を進め、御香宮に布陣する薩摩兵は桃山善光寺に大砲4門を設置。
会津軍の主力は京の南南東に通じる伏見街道を進むべく伏見街道に集結し、表御門・伝習隊が北の御門・新撰組は裏手を警備した。

午後五時頃、京の南南西へ通じる鳥羽街道上の下鳥羽と上鳥羽間で入京しようとする旧幕軍と新政府軍の押し問答の最中、突然薩摩軍が発砲(上鳥羽村小枝橋)し、発砲音が各方面に響き渡り開戦となる。

権助の大砲隊は開戦直後に砲撃を受け、権助は伏見奉行屋敷の北門を開いて薩摩兵に大砲3門で撃ち返す。
新撰組は裏の庭から一発撃った弾が御香宮に届き打撃を与えた。
別撰組・上田隊が会津軍の応援に駆け付けたが薩長軍の大砲は破裂する焼玉で火災や負傷者が増えていき、砲撃戦は深夜まで及ぶが勝敗は決しなかった。

突撃した会津槍隊は銃弾で撃たれていく。権助は槍をもって突進し敵を蹴散らしたが、銃撃8発を受けて重傷を負う。
しかし最後まで兵を叱咤激励し、あとで助け出されて後方へ退いた。
4日午前1時頃に淀城下へ退却。
朝になり新政府軍が鳥羽・伏見両街道から淀城下に向けて進撃開始。旧幕府軍は劣勢の中、林砲兵隊・大砲奉行白井五郎大夫率いる大砲隊130人余・佐川官兵衛(さがわかんべえ)率いる別撰組(べっせんぐみ)両隊・掘隊が食い止め、淀の北東4キロの下鳥羽まで押し戻した。白井隊の奮戦すさまじく「勇なるかな会津の白足袋」と白井隊の味方識別の足袋をさして称えられた。

5日に伏見街道の堤上を前進する新政府軍に、林砲兵隊・佐川隊が援護射撃のもと刀槍での白兵戦を挑むが、正午過ぎに各方面崩される。淀城に拠って立て直そうとするも突然新政府軍についた淀(稲葉)藩に拒否され、淀大橋から南方に退却。
この日、別撰組配下で参戦していた山本三郎が、淀城の川の対岸方面の八幡(京都府八幡市)で負傷兵の救助中に銃で撃たれる。

江戸で小野派一刀流を極意を極め、江川塾で砲術を学んでいた権助の一子、又三郎(安儀)も鳥羽伏見の戦にかけつけて戦い、父が重傷を負ったと聞くと佐川の別撰組に入る。しかし敵陣に斬りこもうとした時に胸部を撃たれて絶命した。

6日夜に慶喜が、会津藩主松平容保をつれて密かに江戸へ帰ったことが戦線の将兵達に伝えられると、彼らも紀州を経て汽船で江戸へ向かった。
権助の傷は深く、3日後に紀州沖で絶命した。享年63歳。
江戸に運ばれた山本三郎も16日に会津藩中屋敷で事切れた。三郎の訃報と形見の紋付は3月に会津の山本家に届けられる。

又三郎の子で権助(安定)の孫にあたる磐人(いわと。林権助の名を継ぐ)は9歳で家督を相続し、鶴ヶ城下に新政府軍が進軍した時は祖母の実家の萱野権兵衛宅に泊まっており、萱野家の婦女子達と三の丸に入り鶴ヶ城籠城戦を体験する。戦後は薩摩藩士の援助を受けて東大政治科を卒業。外交官となって英国大使などを勤め、男爵を授けられた。

 

林権助安定墓所 林氏合葬の墓

▲林氏合葬の墓、左右に林安定・又三郎(安儀)親子の墓がある

・権助が目にかけていた山本覚馬、覚馬や新島八重の弟の三郎ら山本家の墓
 →大龍寺[1]山本家の菩提寺

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

参考図書
・『歴史読本2013年07月号
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・木村幸比古『新選組日記
・『近代日本に生きた会津の男たち』稲林敬一「林権助」※磐人

ちなみに大河ドラマ「八重の桜」のキャストは
林権助:風間杜夫さん
山本覚馬:西島秀俊さん
山本三郎:工藤阿須加さん
佐川官兵衛:中村獅童さん
松平容保:綾野剛さん
徳川慶喜(一橋慶喜):小泉孝太郎さんが演じています

阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓

阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の戊辰戦争殉難者墳墓です。

招魂場へ 戊辰戦争殉難者墳墓

戊辰戦争殉難者墳墓
門には会津葵紋。
四方に柵を廻らした招魂場戦死墓萱野長修遥拝碑萱野権兵衛)と
明治10年の西南の役で殉じた佐川官兵衛ほか旧会津藩士七十名を合祀した際の報国尽忠碑が建てられています。

阿弥陀寺には萱野権兵衛の木像も安置されているらしいです。(津屋英樹『定年草枕』等)

戊辰戦争五十年記念碑

戊辰戦争五十年記念碑。
阿弥陀寺では彼岸に手厚い供養会が行われています。

正覚山阿弥陀寺(あみだじ)
所在地:福島県会津若松市七日町4-20