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混血孤児を保護した澤田美喜-保科家の母と三菱財閥岩崎家の父

サンダースホーム 澤田美喜肖像

エリザベス・サンダース・ホームと聖ステパノ学園の門
右の肖像が澤田美喜さん。戦後の進駐軍兵士と日本人女性の間に生まれた混血児が捨てられることに心を痛め、三菱財閥創業者岩崎家の別荘地を買戻し児童養護施設を設立しました。

 

澤田美喜(さわだみき)
明治27年(1894)子爵保科正益飯野藩第10代目藩主)の長女・寧子(しずこ)は三菱財閥の3代目総帥・男爵岩崎久弥(彌)に嫁いだ。
寧子は上品なだけではなく華族女学校を優等で出て卒業式に昭憲皇太后の前で答辞を読み、津田英学塾も卒業した才媛であった。
久弥は六義園(現東京都文京区本駒込六丁目)に新居を構えて新婚生活を営んだ。
明治29年(1896)に茅町本邸(かやちょうほんてい。現東京都台東区池之端1丁目「都立旧岩崎邸庭園」)にジョサイア・コンドルの設計で洋館が建ち、夫妻は茅町本邸に移住する。

明治34年(1901)9月19日に茅町本邸で長女の美喜が誕生。※上に三人の兄
名付け親は大叔父の岩崎弥之助(菱財閥2代目総帥。美喜の祖父で三菱財閥創業者・岩崎弥太郎の弟)で、弥太郎の母美和と妻喜勢から一字ずつ貰った。

明治36年(1903)1月 妹の澄子が生まれる。
美喜が5、6歳の頃に3人の兄に英語を教えに来た津田梅子(日本初の女子留学生の一人)女史から、共に学んだ。

明治40年(1907)4月 お茶の水東京女子師範学校(現お茶の水女子大学)附属幼稚園に入園。以後、同付属の小・中等部へ進学。
明治41年(1908)3月 大叔父弥之助58歳で没。7月 妹の綾子が生まれる。

大正5年(1916)土佐の岩崎家は真言宗であったが、美喜は数年前に大磯の別荘で病後の静養中に付添看護婦が聖書を音読する声が耳に入りキリストの言葉に興味を持った。美喜の聖書の入手先が学校の友人であると知った、真言律宗信徒の祖母喜勢から退学を迫られ、美喜も悲しむ祖母を気遣って15歳で退学を決意した。
それからは家庭教師──国語漢文和歌は関根正直博士・日本画は野口小恵先生・習字は西田単山(代々加賀藩祐筆)先生・茶道華道は小堀先生(小堀遠州の子孫)・油絵は石川寅治先生・英語は津田女史の紹介の英国婦人といった専門家達──に学ぶ。
父久弥と共に漢詩を読み、母寧子に英語を学び共に日本画を描いた。
この時に雅号を貰う。美喜は「恵芳」母寧子は「小汀」

大正11年(1922)4月に22歳で、フランス帰りの外交官澤田廉三(れんぞう。鳥取県岩井郡浦富村/現岩美郡岩美町浦富出身。東京帝国大学法科大学フランス法科卒業後、外交官試験に首席で合格)と見合いをする。
7月1日に結婚、明治学院のチャペルで式を挙げた。

母寧子が詠んだ詩
家の風 海の外までふき立てむ 松にさきそふ姫百合のはな
咲きいでむ 千代のちぎりの菊の花 うけていははむ今日の盃

廉三の母は敬虔なクリスチャンであった。美喜はメソジスト派の洗礼を受ける。
12月9日に妊娠三か月で夫に随行しアルセンチンのブエノスアイレスに向けて横浜を出航。

大正12年(1923)7月にアルセンチンで長男信一を出産。翌13年8月、日本き帰国時に次男久雄出産。12月に夫の赴任先の北京へ向かう。14年9月に北京で三男晃を出産した。
昭和2年(1927)10月に夫廉三が宮内省御用掛となり外務省本省へ転任のため帰国。翌年4月に長女恵美子を出産。

昭和6年(1931)9月に夫に随行してイギリスのロンドンへ。セルウィン司祭(後の欧州の英国教会の監督主教)の案内で孤児院ドクター・バナードス・ホームを訪れる。明るく充実した教育・実習施設を見学し、自身も週に一度奉仕に通った。
メソジストのウェズリアン教会に通っていたのを、子供達を預けるノーランドの保母カレッジに従い英国教会へ通い始める。

昭和8年(1933)10月 代理大使となった夫に随行してパリへ。マリー・ローランサンに絵画を学ぶ。

昭和10年(1935)2月 夫に随行してニューヨークに渡る。ニューヨーク・シティ第五街聖公会日本部会長に就任。
滞在中にサンマー・シアター(夏季劇団)を組織しニューイングランド地方を回り、興行収入を福祉施設に寄付した。

パリで親しくなった女優ジョセフィン・ベーカー(アフリカ系アメリカ人。琥珀色の歌姫と呼ばれヨーロッパの劇場で人気を博した一方で慈善に勤めた)がニューヨークに来た際、彼女に向けられた黒人差別を目の当たりにする。
昭和11年(1936)6月に帰国。二世連合会救済部会長に就任。翌年9月に妹の澄子が入院する聖路加病院へ通う。澄子は死の直前に洗礼を受けた。享年34歳。

昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争勃発。親米派とみられ同じ大磯の住民の樺山伯、吉田茂らと共に監視がつく。また日本に住むアメリカ国籍の日系二世も、戦争によってアメリカの両親からの仕送りが止められ、また迫害を受けて苦労していたので、外務省の外郭団体として二世連合会が設立された。

昭和19年(1944)3月 狭心症で倒れた母寧子が死去。3人の息子達も召集される。
疎開先の大磯の別荘が日本陸軍に接収され、美喜は娘と共に夫の郷里の鳥取へ旅立ち、熊井浜の別荘「鴎鳴荘」に疎開し、疎開婦人会の会長となる。
父久弥は軍への金品供出の際は潔く渡し、そして岩崎本家の家長として東京に留まった。

昭和20年(1945)1月海軍の軍司令部に入っていた三男の晃が20歳で戦死。
8月15日の終戦により、特攻隊の次男と学徒出陣で召集された長男も帰って来た。
平和を愛していた父久弥だが、戦犯としてアメリカ進駐軍(GHQ)に全財産を没収された。愚痴もこぼさず毅然として受けたが、巣鴨で罪を裁かれもせず理由のない差押えに先祖に申し訳が立たないと苦笑したという。
茅町本邸はG2(GHQ参謀第2部)のキャノン機関(秘密諜報機関)本部となり、岩崎家は和館の一角を間借りして暮すことになった。

昭和21年(1946)7月に夫廉三が公職追放となる。
この年、列車の中で網棚から落ちた風呂敷包を美喜が網棚に戻したが、移動警察に見咎められ、風呂敷の中身を調べられた。中には黒い乳児の死体だった。
乗客が美喜の子ではないと証言したが、この時に一時でも母となったように日本国中の同じ境遇の子になってやれないのかと啓示を受けたという。
美喜は大磯の別荘に、混血児の孤児院を創ることを父と夫を説得し、別荘を買戻す四百万円近くの資金集めのため多方面に協力を求めた。

昭和22年(1947)2月 46歳で大磯に社会福祉法人エリザベス・サンダース・ホーム創立。理事長兼学園長に就任し、混血児を保護した。
名称は終戦の年の終わりに聖母院で生涯を閉じたエリザベス・サンダース嬢が遺言で日本の英国教会に贈った遺産百七十ドルがホームに寄付され初の基金となったことが由来。

父久弥は家を神学校に売り千葉県成田の末広農場に隠居したが、やがて心労のためかアダムス・ストークス発作(不整脈による意識障害)を起こすようになる。

昭和27年(1952)夫廉三の公職追放が解ける。9月、募金募集のため三カ月間北米に行く
昭和28年(1953)3月、夫廉三が特命全権大使として在ニューヨーク国際連合日本政府代表にとなり渡米。
美喜は4月に学校法人聖ステパノ学園創立。理事長兼学園長ならびに聖ステパノ学園小学校長に就任し、愛児達を教育。9月に募金募集のため三カ月間北米とヨーロッパに行く。

昭和29年(1954)9月・翌年9月に募金募集のため三カ月間北米、ブラジル、ヨーロッパに行く。
昭和30年(1955)9月 募金募集のため三カ月間北米、ブラジル、ヨーロッパに行く。
ホーム設立を知った親友の女優ジョセフィーン・ベーカーが無償で講演会を開いて寄付をした上、帰国時に彼女はホームから2人の孤児を養子にと引き取った。
12月2日、末広農場の別邸で父久弥90歳で没する。

昭和33年(1958)創立10周年の記念に写真集「歴史のおとし子」を発行し、ノーベル文学賞受賞者のパール・S・バック(彼女も混血孤児の為にパールバック財団を設立している)が序文を寄稿。
昭和34年(1959)4月 聖ステパノ学園中学校長に就任。9月に募金募集のため三カ月間北米とヨーロッパに行く。
昭和35年(1960)6月 エリザベス・ブラックウェル賞(世界で特に人道主義に貢献した婦人に与えられ、3人目の受賞者)受賞のため北米、続いて園児の作品を出品した絵画展覧会の開会式出席のためパリへ。9月にパール・バック女史と韓国訪問。
昭和37年(1962)1月 ビルマを視察旅行。9月 北米、ブラジル・アマゾン、ヨーロッパを視察旅行
昭和38年(1963)4月 朝日賞受賞。
昭和40年(1965)国際孤児財団世界の婦人賞受賞。夫廉三が鳥取県の県政顧問となる。
昭和45年(1970)12月8日に夫廉三死去。廉三は戦後外務次官、国連大使を務め、日本の国際連合加盟に貢献した。また通訳として親しく昭和天皇に接した。

昭和55年(1980)5月12日、講演旅行先のスペイン領マジョリカ島にて心臓麻痺をおこし死去。享年78歳。澤田夫婦は鳥取の浦浜の海の見える墓地に眠る。
美喜が30年間に育て上げられた者約2千名。内約600名は海外の家庭に養子となって自立。9名はアマゾン河流域の開拓地で新天地を開こうと努めた。

 

澤田美喜記念館 クロス

澤田美喜記念館
岩崎山と呼ばれた丘の上にノアの方舟をイメージした建物が佇んでいます。
手前に26聖人の十字架の階段が続き、2Fが礼拝堂、1Fに美喜さんが集めた、隠れキリシタンの遺物の数々が展示されています
美喜さんは事業開始当時、妨害や中傷、乗っ取り工作等に直面して打ちひしがれた時に、キリシタン遺品の並ぶ小堂で祈ることで気力を取り戻したそうです。

ガイドブックとポストカード

見学に訪れると、戦国時代のものから一つ一つ丁寧に説明をして頂き、当時の弾圧の様子がひしひしと伝わってきました。
魔鏡と言われた、太陽光で映し出す鏡のレプリカを実際に外に出ての実演もあり、見た目は普通の鏡なのに予想以上にくっきりとイエス像が浮かび上がった精巧さとその技術に驚きました。
そして奥の納骨堂には幼くして亡くなった孤児や身寄りのない卒園者の遺骨が美喜さんの分骨と共に納められています。安らかなお眠りをお祈り申し上げます。

切支丹燈籠 三点鐘を鳴らす鐘

▲切支丹灯篭と朝夕に三点鐘を鳴らす鐘

・社会福祉法人・児童養護施設エリザベス・サンダース・ホーム
・澤田美喜記念館
所在地:神奈川県中郡大磯町大磯1152

参考図書
・沢田美喜『黒い肌と白い心』『母と子の絆-エリザベス・サンダース・ホームの三十年
他碑文・パンフレット類

関連サイト
・Elizabeth Saunders Home:http://www.elizabeth-sh.jp/
・学校法人聖ステパノ学園:http://www.stephen-oiso.ed.jp/
・三菱グループ:http://www.mitsubishi.com/

飯野藩保科邸・会津藩家老萱野権兵衛の最期

慶応4年(1868)9月4日、鶴ヶ城で籠城中の前会津藩9代藩主松平容保(かたもり)宛てに降伏を勧める米沢藩主上杉斉憲の書簡が、高久(たかく。会津若松市北会津町)屯所で越後口守備にあたっていた会津藩家老萱野権兵衛長修(かやのごんべえ・ごんのひょうえ ながはる)に託され、これを軍事奉行添役の秋月悌次郎(あきづきていじろう)が受取り進呈する。
慎重に周辺同盟藩の情報を収集するため秋月は同じく公用人の手代木直右衛門勝任(てしろぎすぐえもん かつとう)と米沢藩陣営に赴くが、既に米沢藩は新政府に恭順していた。
城へ戻り同盟藩であった仙台・庄内の動向と照らし合わせて協議し、容保は降伏を決意する。

19日秋月・手代木らの降伏の申し出が土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治に受け入れられ、21日に開城の令を示した。
22日午前10時、鶴ヶ城追手門前に降伏の旗が立った。籠城中に布は包帯に使用されており、集めた端切れを照姫(てるひめ。容保の義姉)ら婦人達が断腸の思いで継ぎ合わせ、涙で濡らした白旗である。

正午に大手門外の甲賀町通りの内藤家・西郷家間に緋毛毯が敷かれた式場へ新政府軍の軍監中村半次郎、軍曹山縣小太郎、使番唯九十九等諸藩の兵を率いる錦旗を擁して進み、会津側は秋月・手代木が熨斗目上下を着用し無刀で迎える。
重臣萱野権兵衛・梶原平馬(かじわらへいま)が出て、次いで礼服の容保・第10代藩主喜徳(のぶのり。慶応3年容保の養子となり翌年開戦前の2月に容保が恭順の意を示すために家督を相続)父子が近臣十名余を従えて着座し式に臨み、降伏謝罪の書を提出した。
引き渡された城内の兵器は大砲51門・小銃2845挺・動乱18箱・小銃弾薬23万発・槍1320筋・長刀81振。

容保父子は輿で謹慎地の滝沢村の妙国寺に送られ、しばらくして萱野権兵衛ら三十名余が伴った。この時重臣達は自分たちの処罰と引き換えに容保父子の助命を求める連署をしたためている。
23日に家臣は天寧寺から謹慎地の天猪苗代へ、傷病者は青木村、婦女子と60歳以上・14歳以下の者は塩川へ立退くが、開城を知って自刃する者もあった。
24日午後に新政府軍が鶴ヶ城に入る。

 

10月19日に新政府から容保父子が権兵衛ら重臣達と共に呼出され、佐賀藩徳久幸次郎の兵の護衛で東京へ出立。
11月3日に東京着。容保は梶原平馬・手代木直右衛門・丸山主水・山田貞介・馬島瑞園(まじまずいえん)と因州(鳥取)藩池田慶徳邸に入り、
喜徳は萱野権兵衛・内藤介右衛門・倉澤右衛門・井深宅右衛門(いぶかたくうえもん)・浦川藤吾は久留米藩有馬慶賴邸での謹慎となる。
狭い部屋に押し込められる形であったが、権兵衛はまだ年若い喜徳をよく気にかけ、皆がくつろぐ中でも常に正座をやめず、しかし時に冗談などを言って皆を和ませたという。

 

11月、明治政府軍務官より「容保の死一等を減じて永預となし、代わりに首謀者を誅して非常の寛典(かんてん)に処する」と下された。容保父子の助命の代わりに、処罰すべき戦争責任者の差出しを求められたのである。

12月に新政府は会津松平家の親戚であり、会津藩への情報取次をしていた飯野藩保科弾正忠正益(まさあり)に取調べを命じた。
正益は、8月23日の新政府軍鶴ヶ城下侵襲の日に甲賀町で既に切腹している会津藩家老田中土佐(たなかとさ。玄清)・神保内蔵助(じんぼくらのすけ)の二名を戦争責任者として選び、返答した。
しかし死者の選出は政府に認められず、権兵衛が首謀者として候補にあがる。

このことが伝えられ、忠誠純義な権兵衛は藩に代わって死ぬのは本分であると語り、会津藩の罪を一身に背負うことを受け入れ、早く名前を書き加えるよう促したという。
権兵衛の潔さと決意に感じ入った正益は、翌明治2年(1869)正月24日に先の二名に権兵衛の名を加えて軍務局へ提出する。
5月14日、政府は正益に家老萱野権兵衛の処刑・打ち首を命じた。

15日に梶原平間と北原半助(故神保内蔵助二男)が有馬邸を訪れて処分の決定を伝えた。容保からの白衣や遺族への手当料を頂いた権兵衛は容保に感謝を示した。

 

5月18日の処刑の日の朝、故郷の老父への一書を残し沐浴で体を清めた権兵衛は、浦川藤吾に普段と変わらない様子で、斬首に際して見苦しくないようにと襟元などを入念に整えるよう頼むので、浦川は権兵衛の髪を取りながら櫛に涙を落す他なかった。
喜徳より葵紋のついた衣服一式を賜ったが、紋服を汚すのは畏れ多いと着用しなかった。

静々と座した権兵衛の前で、権兵衛の茶の仲間であった井深宅右衛門(重義。容保の御側付)が茶を点じる。
戊辰戦争で一刀流溝口派師範の樋口隼之助光高が行方不明になり流儀が途絶えることを憂いていたため、流派免許を得ている権兵衛は、この時長い竹の火箸(最後の膳の箸とも)を持って宅右衛門に一刀流溝口派の奥義を伝授したという。

同朝、山川大蔵と梶原平馬が麻布広尾の飯野藩保科下屋敷を訪れて、出迎えた飯野藩老中大出十郎右衛門・大目付玉置予兵衛に、前年からの会津に対する厚意とこのたびの権兵衛の件に対して慇懃に礼を述べた。

飯野藩隊長中村精十郎が兵を率いて有馬邸に向かい権兵衛を篭で護送し、保科邸の茶亭に着く。
権兵衛が隣室に入ると山川と梶原が、容保直筆の親書と、青山の紀州藩邸に預けられていた照姫(容保の義姉であり、保科正益の実姉でもある)の手書と見舞いの歌を渡す。

今般御沙汰ノ趣窃ニ致承知恐入候次第ニ候 右ハ全我等不届ヨリ斯モ相至候儀ニ候立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至
不耐痛哭候扨々不便ノ至ニ候面會モ相成候身分ニ候是非逢度候得共其儀モ及兼遺憾此事ニ候其方忠實之段ハ厚心得候事ニ候間後々之儀等ハ毛頭不心置此上ハ為國家潔遂最後呉候様頼入候也
                      祐 堂
五月十六日
   萱野権兵衛

今般(こんばん)御沙汰(さた)の趣 ひそかに承知いたし恐入り候
右は全く我が不行き届きより 斯(か)くも相至り候義に候
立場柄、父子はじめ一藩に代わりくれ候段に立ち至り
痛哭に耐えずさてさて不便の至りに候 面会も相成り候身分に候 是非とも逢いたく候えども、その儀も及びかね、遺憾この事に候 其方(そのほう)忠実の段は厚く心得候間後々の義等は毛頭心置かず、この上は国家の為、いさぎよく最期を遂げくれ候よう頼み入り候也

祐堂は容保の雅号である。

偖此度ノ儀誠恐入候次第全御二方様御身代ト存自分ニ於テモ何共申候様モ無ク氣毒絶言語惜シキ事ニ存候右見舞之為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

この度の儀、誠に恐れ入り候次第、全く御二方様お身代と存じ自分においても何とも申し様もなく、気の毒言語に絶たず、惜しきことに存じ候
右見舞いの為申し進め候

夢うつつ思いも分かず惜しむぞよ まことある名は世に残れども

権兵衛は容保の厚意と会津のために潔く最期を遂げてくれとの権兵衛にとって誉ある言葉、照姫のはかなさを惜しみながらも真に存在するその名は残るとの憐みの筆を、真に栄誉であると感涙し、山川と梶原にも熱涙をさそった。
定刻までの短い間に正益からの酒肴が出され訪れた会津藩士と遺族一同で別れの杯を酌んだ。

会津藩士達が帰路につくと、飯野藩の大出・玉置が部屋に入って朝命を伝え、正益から賜わった白無紋礼服一着を交付して退座する。
次いで起倒流柔道指南役で剣術にも長けた飯野藩士沢田武治(武司)が対面した。目利きに優れた権兵衛はいとも冷静に、沢田が介錯のために正益から賜わった刀が貞宗の業物であると認めて、両者は正益の武家らしい情けに感じ入った。

面会後に行われた執行準備で、白木三宝(三方とも。神饌や献上品を載せる台)と白紙で包んだ扇子(白紙で短刀に見立てている)が置かれた。
これは新政府の要求する罪人の斬首でなく、密かに切腹の作法である扇腹(おうぎばら、扇子(せんす)腹とも。三宝に載せた白扇を取るため前かがみになった時に介錯人が首を落す。自ら命を絶つ形を取らせて武士の体面を保たせる切腹の作法)を行うことを示していた。

飯野藩大目付の玉置予兵衛・隊長中村精十郎・御徒目付今井喜十郎・介錯沢田武治・助員中川熊太郎・他小頭三名の立ち会いのもと、権兵衛は主君の居る屋敷の方角を拝し、命を絶った。享年42歳(40とも)。
保科正益は政府の命令の罪人としての処刑をさせず、武芸に秀でた飯野藩士沢田武治の介錯と銘刀をもって、切腹の作法通りに扇腹を行い、建前には政府の斬罪の要望と、実際には権兵衛に対し会津武士の面目を、両方全うさせたのだろう。

遺体に丁寧に布団を被せ置き、玉置と沢田が残って遺体を清めて棺に入れ、正益はこの日のうちに軍務官へ、申付けの通りに松平容保家来・叛逆首謀萱野権兵衛の刎首を執行したと簡潔に届けさせた。

軍務官から飯野藩で遺骸処置すべしと通達があり、棺を浅黄木綿で覆って外面は貨物の如く装って、権兵衛の意志に従い白金の興禅寺に送った。
興禅寺には、鳥羽・伏見の戦いに際し徳川慶喜と松平容保の江戸への脱出を進言し敗戦を招いた元凶だと迫られ、責任を負って三田下屋敷で自刃した神保修理(長輝)他会津藩士が眠っている。

正益は権兵衛や儀を執行した飯野藩家臣に香典を供し、その後も松平家再興等の伝達を受持っている。
また容保父子・照姫と厚姫(容保の長女)がこのたびの首謀者として名を並べた萱野権兵衛・田中土佐・神保内蔵助に対して香典を与え、容保父子は三人の遺族にも菓子料を賜わった。

 広尾の保科下屋敷・現都営広尾五丁目アパート

▲『江戸切絵図』と現在の飯野藩下屋敷跡地(東京都渋谷区広尾)

 

本来家老席順で責を負うべきであったが行方不明として死を免れた保科近悳(西郷頼母)が明治24年2月20日に興禅寺の墓に参り「あはれ此人のみかくなりて己れは長らひ居る事は抑如何なる故にや、実に栄枯の定りなき事共思ひ続くるに堪す」と記している。

介錯を務めた沢田は横浜に移ったのち箱根底倉の蔦屋旅館を譲り受けて箱根の観光・医療業に貢献することとなるが、子孫の仏壇には代々萱野権兵衛の位牌が祀られ、自刃の際に「顔色も変えず平生の如し」潔さを思い起こしては語り涙したという。
(その後も沢田家は長く旅館を営みましたが現在「つたや」は経営者が他家に替わっています)
【2018年追記:「つたや」旅館は2017年をもって閉館しました】
【再追記:2019年11月よりゲストハウス「そこくら温泉 つたや旅館」として新装開店しました】

興禅寺

興禅寺では今も萱野権兵衛の法要を行っている(東京都港区白金)
萱野権兵衛の戒名は報国院殿公道了忠居士。福島県会津若松市の天寧寺にも妻と一緒に弔われた墓がある。
 

※参考図書は記事中リンク先ページと同一、沢田家については後に記事にする予定です。
 
* * *

ちなみに
記事中人物の八重の桜でのキャスト(敬称略)は…
・萱野権兵衛:柳沢慎吾(会津藩家老)
・松平容保:綾野剛(会津藩9代藩主)
・照姫:稲森いずみ(容保の義姉・保科正益の実姉)
・松平喜徳:嶋田龍(会津藩10代藩主)
・秋月悌次郎:北村有起哉(会津藩軍事奉行添役)
・内藤介右衛門:志村東吾(会津藩家老)
・山川大蔵:玉山鉄二(会津藩若年寄→家老)
・梶原平馬:池内博之(会津藩家老)
・神保内蔵助:津嘉山正種(会津藩家老)※
・田中土佐:佐藤B作(会津藩家老)※賀町口で奮戦するが田中が負傷。共に医師の土屋一庵邸で自刃
・上杉斉憲:倉持一裕(米沢藩主)
・板垣退助:加藤雅也(土佐藩士)
・伊地知正治:井上肇(薩摩藩士)
・中村半次郎:三上市朗(薩摩藩士)
・徳川慶喜:小泉孝太郎(幕府15代将軍)
・神保修理:斎藤工(会津藩軍事奉行添役。神保内蔵助長男)
・西郷頼母:西田敏行(会津藩家老)

最期はあばよでなく「さらばだ!」でしたね。

会津藩主松平家御廟[2]照姫の墓所

容保と照姫の墓

▲松平容保の墓所のそばに佇む松平家の墓に義姉の照姫が眠る

松平煕・照姫(てるひめ)
天保3年(1832)12月13日、上総国飯野藩九代藩主の保科正丕(まさもと)の三女(てる)は、側室の静広院を母として飯野藩の江戸藩邸で生まれた。

天保13年(1842)5月25日に11歳で、当時実子のなかった会津藩八代藩主松平容敬(かたたか)の養女となった。
容敬の子が次々に夭折した為、芯が強く教養の高い美少女の照姫を迎えたとの話もあり、翌年9月に容敬と侍妾寿賀女(岡崎氏)との間に娘の敏子が誕生した後も、容敬の照姫への慈愛は変わらなかったという。

弘化3年(1846)4月、容敬は美濃高須藩松平義建(よしたつ。容敬の義弟)六男で12歳の銈之允(けいのすけ。元服して容保/かたもりを名乗る)を養子に迎える。

嘉永元年(1848)7月16日に実父保科正丕が病没し、跡を継いだ保科正益(照姫の弟)を容敬は支援した。

嘉永2年(1849)18歳の照姫は豊前中津藩(現在の大分県中津市)10万石八代藩主奥平大膳大夫昌服(まさもと。この時21歳)に嫁ぐ。
しかし子宝に恵まれず安政元年5月(1854)に離婚し、弘化5年(1848)には会津藩江戸藩邸に戻っている。

嘉永5年(1852)2月10日に容敬が病没し、閏2月25日18歳の容保が九代会津藩主となる。照姫は義姉として容保を支えたという。
安政3年(1856)9月に22歳の容保と13歳の敏子が結婚するが、文久元年(1861)10月に敏子が病没。
文久2年(1862)12月24日容保は京都守護職就任のため江戸を出発。
慶応2年(1866)12月容保は水戸家一橋余九麿(よくまろ。慶喜の実弟、11歳)を養子に入れる。翌年元服し喜徳(のぶのり)と名乗る。
慶応4年(1868)正月の鳥羽・伏見の敗戦後に容保は慶喜に従い江戸に帰還し、恭順の意を表すために2月4日に喜徳へ家督を譲り引退する。
しかし登城禁止令が出され、やむなく16日に会津藩主従は江戸を引き揚げた。

22日、照姫は初めて会津に国入りしたともいう。
容保は更に恭順の意志を示すために鶴ヶ城へは入らず、御薬園別邸に留まった。

しかし戦雲は広がり、会津藩と親密な飯野藩にも嫌疑がかかるが藩主正益の謹慎と重臣達の嘆願で正益は救われた。
国元の飯野藩内では幕府と会津への義によって森要蔵などが脱藩し新政府軍と戦っている。

鶴ヶ城籠城は8月23日から9月22日まで一ヶ月も続くが、照姫は城内にあって六百有余の婦女子の総指揮をとったという。
奥殿の女中若年寄格表使大野瀨山(大野四郎五郎叔母)、御側格表使根津安尾(根津八太夫妹)等に命じて分担させ、婦女子達は病室にあてられた本丸大書院・小書院へ次々と運び込まれる傷兵の手当を蘭方医古川春英ら藩医や幕府の西洋学問所頭取の松本良順と門弟4人らの指導で行い、食事(牛乳や牛肉も与えたという)の世話をした。
手狭になると大奥の長局の間も提供し、照姫は包帯を作るために高貴な衣装を解かせて布芯を使わせた。
飛来した砲弾が破裂する前に濡れ布団や鍋で覆うなど危険な防火処置などにも毅然として活躍し、書籍や帳簿などから薬筒(パトロン)を制作し、食事と物資を運び女達は「照姫様のために」を合言葉に戦い続けたという。
子供は敵の弾丸を拾い、老人が弾丸を造り、皆が力を合わせて兵を支え籠城に耐えた。

鶴ヶ城開城式の後、容保父子と共に滝沢村妙国寺の謹慎に従う。照姫は髪を落として照桂院と名を改めた。

荒れはてし 野寺のかねもつくづくと
身にしみ増さる 夜あらしの声

10月17日夕刻に松平父子と萱野権兵衛ら家臣5人の東京護送の沙汰が伝えられ、立退きを言い渡された照姫は義弟と甥の見送られながら夜半に侍女の高木時尾(側表使。新撰組斎藤一の妻とされる。経緯に諸説あり)達と共に大町の民家に移り、後に七日町の清水屋を寓居とする。

翌明治2年(1869)正月28日照姫は若狭叔母(松平若狭守喜徳の叔母)として紀州藩御預となり、会津から紀州藩兵が護衛して2月29日東京へ向かい、3月10日青山の紀州藩邸(徳川茂承)に入る。
会津藩からは照姫の付き人や側医師ら中奥・表の役人の男子18人、時尾ら侍女22人の40人が従った。
(3月3日御薬園に移った義父容敬側室(敏姫実母)圓隆院や容保の側室達も5月に上京の命が出ている)

新政府から会津藩への伝達・伝令は大方は保科正益を通じてなされていた。
5月18日、会津藩叛逆の首謀者として家老萱野権兵衛が一藩の責を負って飯野藩下屋敷で処刑を命じられた時に、照姫は手紙をしたため、歌を寄せた。

偖此度之儀誠ニ恐入候次第全ク御二方様御身代ト存
自分ニ於テモ何共申候様無之氣ノ毒絶言語惜候事ニ存候右見舞ノ為申進候
 五月十六日
                           照
                   権兵衛殿へ

夢うつヽ 思ひも分す惜むそよ
まことある名は 世に残るとも

正益はり密かに扇による自刃の方式をとらせ権兵衛に朝廷の望む罪人ではなく武士の體面を全うさせた。
その後も正益は松平家再興等の伝達を受持っている。

12月3日、飯野藩の尽力で照姫は飯野藩に預け替となり、27年ぶりに実家で起居することになった。
翌明治3年(1870)3月2日に母静廣院が飯野で亡くなるが、照姫は正益に庇護され、容保と和歌を交わすなどして穏やかに暮らし、晩年に東山温泉へ湯治に行き旅館向瀧にしばらく逗留した記録がある。

向滝

明治17年(1884)2月28日、照姫は53歳で逗留先の東京牛込(旧会津藩家老山川邸)にて死去。容保の子供(おそらく早世の双子)が埋葬されていた新宿の正受院に葬られる。
改名は照桂院殿心誉香月清遠大姉。
照姫の没後に容保も正受院に仮埋葬されたが、正受院の会津松平家関係埋葬者は戊辰五十周年の大正6年に全て会津院内御廟に改葬された。

 

元夫の奥平昌服は、照姫離婚の9年後の文久3年(1863)5月に宇和島藩主伊達宗城の四男儀三郎(昌邁。まさゆき)を嗣子とした。
会津攻撃を心苦しく思ったか定かではないが、総攻撃より前の5月6日病気を理由に、昌邁へ家督を譲り隠居している。

また伊達宗城の妹が、保科正益の室の節子である。
明治32年8月の照姫の十三回忌の供養として、三淵隆衡(萱野権兵衛の実弟)・保科近悳(西郷頼母)・松平健雄(容保次男)ら78人程と共に追悼歌集「かつらのしづく」に節子の歌もある。
そのかみをしのぶなみだのはる雨は 我袖にのみふる心ちして 保科節子

松平家墓所 松平家の墓照姫の案内板

会津藩主松平家墓所(院内御廟・国指定史跡)
所在地:福島県会津若松市東山町大字石山字墓山

参考図書
・綱淵謙錠『幕末の悲劇の会津藩主 松平容保
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・会津戊辰戦史編纂会『会津戊辰戦史
・富津市史編さん委員会『富津市史 通史』『富津市史 史料集2
・牧野登『保科氏800年史』
・『三百藩戊辰戦争事典〈上〉
・『歴史読本2013年07月号

飯野藩「浜屋敷」

飯野藩浜屋敷跡 飯野藩浜屋敷案内板

上総国(千葉県)飯野藩は慶安元年(1648)飯野陣屋に藩庁を置いたが、同じ頃に上方所領の代官所を摂津国豊島郡浜村(大阪府豊中市浜)の天竺(てんじく)川東岸に置き、豊島・能勢・河辺・有田の四郡、丹波国天田郡、近江国伊香郡の租を輸した。
土地の者は浜屋敷と呼んだ。
安政年間に発行された飯野藩の藩札(藩が発行する紙幣)の銀札摂津飛地札に「攝州濱村 預り切手・摂州濱屋舗(摂州豊嶋郡濱屋舗・摂刕濱屋舗)引替會所」等、浜屋舗(屋敷)の文字がある。

東西約35間(約64m)、南北約51間(約93m)の長方形の屋敷で、東側中央に門があり、その正面に役所、北に接して牢屋敷もあったとされる。

浜村陣屋推定位置

▲古地図からの浜屋敷推定位置(2013年現在の地図、上が北)
文化7年制作と言われる『小曽根郷六箇村絵図之写』に描かれた「御屋敷(やしき)」と、名神高速道路が通る前の航空写真、今西氏屋敷の史料・絵図と比較すると現在の浜3丁目5番地辺りに重なります(絵図が元なのでおおよその位置です)

浜屋敷の北東の今西屋敷は中世の荘官(目代)屋敷で、春日社の社家出身の目代今西氏36代目である今西春房は明智光秀の娘を娶り、弟の今西春光が山崎の戦いにで明智方についたため豊臣秀吉に所領を没収されてしまったと伝承されています。
その後、浜の領主となった飯野藩保科氏の庇護で復興を許されたそうです。
明治時代に再び廃されましたが府指定史跡として屋敷が残されており、現在も今西家の方が住まわれています。

 

浜屋敷東側 浜屋敷西側中央

▲浜屋敷の東側と、西側中央
左写真の白い老人ホーム建物向かいのアパート付近に浜屋敷正門、天竺川を背にして撮った右写真の小道の先の付近に役所が在ったと思われます。

名神高速道路の高架下 浜屋敷西側

▲浜屋敷跡の碑遠景と天竺川堤
碑の背後の草地には石や溝がありますが、道路や名神高速の高架工事時のものでしょうか。
浜屋敷西沿いにあたる天竺川の堤も高架の高さに積まれた岩が露出しています。

新天竺橋 天竺川

▲新天竺橋と天竺川
古地図には橋は無いですが、この新天竺橋辺りが浜屋敷敷地南西の角であったと思われます。
右の写真は橋から高架に向かって流れを撮影。現在は岸・川底共にコンクリートで固められています。

光久桂治氏の敷地 旧浜村集落の古民家

旧浜村の集落は今も民家がたち並んでいます(右写真)
左写真、地主さんの蔵と奥の家宅は近年建替のようですが、手前二棟の場所には昭和初期から建物が在りました。

 

飯野藩浜屋敷跡案内板
飯野藩上総国飯野二万石保科氏は 大坂夏の陣で天王寺表に功あり
よく大坂定番をつとめ 慶応四年鳥羽伏見の戦いの前の動乱時
藩主正益が京橋口定番であったので 領民も大坂城につとめたという。
慶安年中当地に代官所をおき浜屋敷と称し 藩札を発行し 天田郡一揆を解決する。

所在地:大阪府豊中市浜3丁目

参考図書
・佐野英山『藩札図録
・豊中市史編さん委員会『新修豊中市史』(付録「小曽根郷六箇村絵図之写」)
・豊中市教育委員会『春日大社南郷目代今西氏屋敷総合調査報告書』
・橘田正徳『大阪府指定史跡春日大社南郷目代今西氏屋敷』

保科氏の家紋

保科氏家紋

 保科氏は清和源氏井上掃部助(いのうえかもんのすけ)賴季流で、築後守正則(諏訪郡の高遠氏家臣)が信濃国中嶋高井郡保科に生まれたことから保科を称号としたとされるが、「保科ははじめ星の御門と申し、また星野とも言い、信州に移って保科と改める」「井上頼季の6代孫の井上忠長が悪星を射落としてついた村名の星名(または星無)からこれを氏とする」等の諸説有。
※保科氏のルーツ(伝承)については→飯野藩保科家系譜・伝(保科郷の保科氏)

 保科家の家紋は「いにしえは天人の子であり、ある時産屋にさした星の光を、絹を隔てて見ると、丸九曜の如くであったことからこれを紋所とした」と由来記に、前述の「井上忠長が悪星を射落した時に星が光を顕したことから家紋を角九曜とする」と『保科村村誌略』にある。
 保科家一の御旗は、一は万物の初であることから信玄公の戦功の第一として賜わり一文字、武器類には丸の内一文字、古い武器・道具に丸の内九曜が見られる。

丸九曜丸の内九曜   丸一文字丸の内一文字

 江戸時代の初めには、徳川秀忠の血をひく保科正之(ほしなまさゆき)の血統と同じ家紋を使うことを遠慮したためか、会津藩保科家(正之の家系)は並九曜、飯野藩保科家は五つ鐶に九曜五つ鐶に一文字を用いた時期もある。

 

 会津藩保科家は初期から並九曜(なみくよう)が見られ、御幕の紋は並九曜となる。
 並九曜はならびくようの読みや、角九曜・平形九曜とも呼ばれる。九曜は古代インドで占いに用いた九つの星(羅睺(らご)・土曜・水曜・金曜・日曜・火曜・計都(とつ)・月曜・木曜)を表し、それを仏身に現した(不動明王・聖観音・弥勒・阿弥陀・千手観音・虚空蔵・釈迦・勢至・薬師の菩薩)九曜を集めて九曜曼荼羅と言うので、九曜紋は月星紋の一種として妙見信仰に基づく紋ともいえる。

並九曜 並九曜

※『大武鑑』に保科正之が「並九曜」で保科正貞(飯野藩)が「九ツ銭」とする時期があるが、保科家側の主な資料に九ツ銭紋を用いた記録は見当たらず、現在調査中

 

 梶葉(かじのは)紋は諏訪神社・諏訪の神裔の章で、諏訪上社の大祝である神(みわ。建御名方命の後裔ともいわれる)氏の子孫や、諏訪下社の祝金刺舎人氏の家紋である。(『信濃史源考』等)
 保科氏も、神氏諏訪の庶流として「立梶の葉」を用いた。
 梶の皮は祭祀の際に捧げる幣帛(ぬさ)・葉は食物を供え、梶の木は神事に関係深いものとして梶紋が使われた。徳川時代の梶紋の大名は保科・諏訪・松浦の三氏。

梶の葉 梶の葉(立梶葉)

 

元禄9年(1696)に保科正容(まさかた。正之の六男)が松平の氏と葵御紋の使用を許されて会津松平家の御葵紋を用いるようになると、飯野藩の家紋が保科家の並九曜と梶の葉となった。

参考資料
『保科村村誌略』『保科御由来記』『保科御由来所』『保科正則由来書』等
※家伝・郷土系の資料は別途まとめる予定です

 

余談ですが…映画版の「天地明察」が原作(冲方丁著小説)よりも会津藩主保科正之を押し出し、要所で並九紋の家紋を強調して見えたのは、史実として保科正之が山崎闇斎や安藤有益の才能を認めていたことだけではなく、家紋が天体に関わり深いこと(星紋)のためでもあるかと思ってみていました。
そういった設定があるとのテキストは見当たらない(冲方氏と福島についてくらい?)ので、深読みでしょうか。