八重の桜」タグアーカイブ

山本覚馬・八重誕生の地と覚馬の少年時代

山本覚馬と八重の誕生地碑 山本家跡案内板

山本覚馬・新島八重誕生の地碑
平成2年5月30日に、生家の近く(実際の地とは少し離れています)の会津郷土史研究家・宮崎十三八氏の自宅前に建立された誕生碑には、八重の籠城戦の直筆の歌「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」が彫られている。

 

覚馬の少年・青年時代
砲術師南・百五十石の山本家は鶴ヶ城(会津若松城)下郭内・米代四ノ丁に住んでいた。
文政11年(1828)正月11日に権八・佐久夫婦の長男、義衛──後の覚馬良晴(かくま よしはる)が生まれる。
覚馬は5歳の時には唐詩選の五言絶句を暗誦し、7、8歳の頃自宅裏の菜園から野菜が盗まれた時に足跡から犯人像を言い当てる鋭い観察眼を持った神童であったが、近所の子供と喧嘩もよくした。
毎日風呂に入りたいと早朝6時前に起床し稽古場へ行く前に一里半もある持山で薪を採り母を助けて掃除をするのが日課で、9歳の時に川で上手く独りで馬を洗った逸話もある。
9歳で一年早く藩校日新館に入り文武両道の才を現した。特に大内流の槍術が得意で馬術も好んでいた。
学問が進むと会津藩の軍制長沼流の兵要録を読み、軍制中で得意の槍術が占める位置に関心を抱いたという。
20歳を超える頃には「頭には総髪の大束髪を結い、月代は剃らず、ツンツルテンの袴を履き、木綿のブッサキ羽織を着て、腰には大刀造りの大剣を佩び、鉄扇を手にして街を闊歩していた様子は威風堂々として人を圧する趣があった」と伝えられ、八重も後に「兄は若い頃は二十二貫(82.5kg)程目方がありまして」と覚馬の立派な体躯を語っている。

八重は弘化2年(1854)11月3日に誕生。後に川崎尚之助もこの家に寄宿する。

山本家案内看板 山本家跡周辺

▲案内看板と、山本家・伊東家跡付近
山本家の東隣には八重が銃を教えた伊東悌次郎(ていじろう。白虎隊二番士中隊)の生家、裏手には八重の幼馴染ユキの住む日向(ひなた)家。

山本家周辺古地図詳細 山本家周辺古地図

▲生家跡と誕生地碑のある場所が比較できます

山本覚馬・八重誕生地碑
所在地:福島県会津若松市米代二丁目1-23(米代二丁目バス停下車徒歩2分)

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史読本2013年07月号
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」

大河ドラマ館『八重と会津博』

鶴ヶ城の三の丸口、県立博物館の隣に大河ドラマ「八重の桜」の背景や世界観を体感できる
ハンサムウーマン八重と会津博 大河ドラマ館』があります。

八重の桜(綾瀬はるか) アームストロング砲

八重の桜サイン入りパネルアームストロング砲
記念撮影にどんどん撮って下さいとこのパネルをお勧めされたので掲載しても良いのかな?
ドラマ館の外には説明等は無いですが、会津を苦しめた(小田山から佐賀藩が砲撃をあびせた)アームストロング砲の複製が置かれています…

第1展示場は大河ドラマ情報と
八重の原風景・会津藩山本家ゾーン
大河ドラマ登場人物の衣装や撮影小道具、山本家全景の模型展示など展示

山本家セット
角場(射撃場)セットを再現。ドラマと同型のスペンサー銃を使った射撃体験が出来ます。
銃の照準は外されていて、弾ではなくモニターの的にセンサーを当てて撃つデジタル仕様ですが、様になる銃の持ち方や構え方が分かって面白かったです!
撮影向けというのもありますが火縄銃とは構え方が違いますね。銃床を肩にあてなければいけないので弓のつがえ方とも違いますが胸から下は弓道の応用でよさげ。

シアターコーナー
八重の桜メイキング映像等放映
…等で構成されています。

 

鶴ヶ城北出丸セット

北出丸再現セット

第2展示場はドラマセットゾーンが主体で、鶴ヶ城の籠城戦で大砲を設置した「北出丸」が再現されています。こちらは一部撮影可。
チケットやパンフレットに使われている会津若松城下絵図屏風もここに展示されています。

鶴ヶ城籠城戦の大砲模型 臼砲

▲複製大砲と弾丸
フランス型四斤山砲のレプリカかな。先に飯盛山で新政府軍の弥助砲の砲身を見ていたら、よりコンパクトに見えるかも。
臼砲は至近距離用。隣に砲弾も有ります。

他アンテナショップや絵付け体験のチャリティーブースも有り、八重の桜ファンには充実のスポットでした!

大河ドラマ館サイト:http://yae-sakura.jp/dramakan
所在地:福島県会津若松市城東町2番3号

 

大河ドラマ館パンフレット

まるとく会津(割引券)の引換特典は可愛いミニ缶バッチ。
ちなみに「ハンサムウーマン」は新島襄が、凛と生きる妻の八重を称した言葉です。

会津に行ってきました

鶴ヶ城 会津若松駅白虎隊士像2

鶴ヶ城
会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

八重の桜・山本家関連
大河ドラマ館『八重と会津博』
山本覚馬・八重誕生の地と覚馬の少年時代
大龍寺[1]山本家の菩提寺
中野竹子殉節の地碑と柳橋

会津藩主・藩士関連
萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑
天寧寺[1]萱野権兵衛・郡長正の墓所
西郷頼母邸跡と四郎顕彰碑
善龍寺-西郷頼母一族墓所
飯盛山と白虎隊
佐川官兵衛顕彰碑
長命寺-戊辰戦争の弾痕(佐川官兵衛奮戦)
愛宕神社の松平容保公の像
会津藩主松平家御廟[1]
 └松平家御廟[2]照姫
会津藩主松平家の別荘「御薬園」
阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬
 └阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓(萱野権兵衛の遥拝碑)
阿弥陀寺[3]新撰組斎藤一の墓所
大龍寺[2]林権助(安定)墓所
秋月悌次郎詩碑

資料館等
白虎隊記念館
白虎隊伝承史学館
骨董むかしや(会津新撰組記念館)
福島県立博物館
会津武家屋敷[1]復元西郷頼母邸武家屋敷[2]

他、記事制作中…

▽親記事「伝習隊と新撰組」の会津関連
清水屋旅館-土方歳三が宿泊
土方歳三が湯治した東山温泉
天寧寺[2]近藤勇の墓
旧滝沢本陣
新選組殉難地「如来堂」
興徳寺[1]秋月登之助墓所

戊辰戦争の戦蹟や八重の桜の観光スポットを巡ってきました!
会津滞在は一泊な上、自分の足での移動なので範囲は狭いですが、じっくり見て回れたので少しずつ記事を上げていきますね。

 

会津のマスコットキャラ 会津若松駅の駅舎 あいづライナー

・新島八重マスコットキャラクター「八重たん」、会津郷土の縁起物・玩具の赤べこと起き上がり小法師のゆるキャラ「あかべぇ」「起き上がり小法師」
・会津若松駅の駅舎と磐越西線「快速あいづライナー」ラッピング車両

八重の桜ロケ地-上総の古戦場・三舟山

先月、上総地区の三舟山周辺で大河ドラマ「八重の桜」のロケが行われ、山本八重役の綾瀬はるかさんや川崎尚之助役の長谷川博己さんが撮影に来られたそうです。
今回のロケは明日4/28「長崎からの贈り物」と次週5/5「尚之助との旅」に放送予定とのこと。
広報きみつ掲載の写真では、第十八回タイトルの「尚之助との旅」のシーンに見えますね。

※三舟山の様子は君津市ホームページへ。広報きみつ(ロケ情報は平成25年4月号12面に記載)もDLできます。

 

三舟山と戦国の合戦
 千葉県富津市・君津市にある標高138.7mの三舟山(御船山)は、戦国時代の古戦場でもある。

 永禄5年(1562)北条氏康・武田晴信(信玄)の相甲軍が、前年上杉軍が奪取して岩槻城主太田資正の属城となっていた武蔵国松山城を攻め、資正は上杉輝虎(謙信)に救援を求めた。
 上杉は、安房・上総・下総半国・三浦四十余郷を切従えていた久留里城の里見義堯・義弘親子に参陣を促し(※松山城救援に向かったのは義堯でなく勝浦城主正木時忠の子等、諸説有)、永禄6年(1563)国府台(こうのだい。鴻台・鵠台)で北条軍と対峙した。第二次国府台合戦である。
 翌年の戦いを経て諸将多くの犠牲を出し撤退した里見氏は、小田原北条軍に下総・上総も万喜(まんぎ。上総国夷隅郡の万喜城は里見義堯と婚姻を結んだ土岐為頼ら土岐氏の城)方を奪われ、勝浦正木時忠(この戦い以前に死去している大多喜城主正木大膳亮時茂の弟)も離反してしまった。

 永禄10年(1567)2月20日、北条氏康の子氏政率いる三千余騎が小田原を出立して西上総に侵攻、翌21日佐貫着。
 三船山の下半分は岩山で一筋の細道がつづら折りに通る難所であり、陣地に適しているとみた北条軍は三船台に陣取った。
 佐貫城から里見義弘出陣、両軍激しく衝突するも後陣の戦となると急に里見方が引き返し、これを国府台の敗戦から臆病風に吹かれたか大多喜正木にも見捨てられたとみた北条方は一気に攻め入った。
 ここぞと岩かげから正木大膳亮(時茂養嗣子の正木憲時。時茂嫡男信茂は国府台合戦で戦死)率いる正木党が襲い北条方を斬り崩し、逃げ惑う北条兵を里見義弘らが待ち受ける。
 なかでも蓮沼に追い込まれた兵が多く討たれた。

 氏政は敗走、三船山合戦の勝利で国府台の恥辱を雪いだ里見氏は再び上総での勢力を挽回した。

三船山合戦古戦場
▲里見軍が布陣したという障子谷付近。正木軍はこの西の八幡の森に控えたとされる。

 
佐貫城址から望む
▲佐貫城址から北条軍の侵攻方面を撮影

 

 現在の三舟山には上総の四季と展望を楽しめる遊歩道「三舟山アメニティロード」が設置され「三舟山陣跡」案内もあります。
 後々千葉県の戦国史のページを作る折に改めて紹介予定です。

参考図書
・谷口研語『諸国の合戦争乱地図 東日本編
・川名登『すべてわかる戦国大名里見氏の歴史
・千野原靖方『国府台合戦を点検する』『房総里見水軍の研究
・稲田篤信『里見軍記・里見九代記・里見代々記

川崎尚之助と山本一家・八重との関係

川崎尚之助について、尚之助と山本一家、八重(やえ。後の新島八重)との関係についての覚書。
※大河ドラマ「八重の桜」のネタバレになりますのでご注意下さい

 

●出石藩士の川崎正之助
川崎尚之助(かわさきしょうのすけ)は天保7年(1836)11月、但馬国出石(いずし。現兵庫県豊岡市)の本町で、川崎才兵衛(通説[a]では出石藩の藩医)の子として生まれた。はじめは正之助と称した。

正之助(尚之助)は江戸に出て蕃書調所(ばんしょしらべしょ。幕府直轄の洋学研究教育所)教授の杉田成卿(せいけい。杉田玄白の孫)や、芝浜松町の医師大木忠益(仲益。坪井為春に改名)塾で学び[b]、蘭学や舎密学(せいみがく。化学)を修めた。

 
●山本覚馬と出会い、浪人として会津へ
嘉永5年(1852)頃に会津藩の山本覚馬(やまもとかくま)が砲術隊長林権助(ごんすけ)に随行し江戸藩邸勤番を命じられ、この間に勝海舟らと兵学者佐久間象山の塾に学んでいた。
覚馬は正之助も学んだ大木塾に嘉永6年~安政3年(1852~1856)頃まで居たとされ[b]、安政4年(1857)に南摩綱紀と共に会津藩藩校「日新館」の蘭学所の教師となった。この蘭学所設立前に正之助の才能を見込んで会津に招き、会津城下の自宅(米代四ノ丁)に寄宿させ、四人扶持で蘭学所の教授に推薦するも正之助は扶持を辞退している。
扶持取…一人扶持は1日あたり玄米五合として俸禄を受けた。四人扶持は1年に七石二斗

正之助は砲術指南役の山本家[八重の母の山本佐久(さく)が砲術師範山本家の長女で、山本権八(ごんぱち。永岡繁之助)が婿に入って継ぐ]の元でラッパや鉄砲と弾薬・銅製パトロン(薬莢)の製造も指導する。

また会津藩祖の保科正之と同じ漢字を避けて尚之助(荘之助)と改めたという。[a]
この時尚之助21歳、覚馬の妹で権八の三女の八重は13歳。

 
●覚馬上洛、砲術師範としての尚之助
文久2年(1862)会津藩主松平容保(かたもり)の京都守護職就任で随行の覚馬が上洛した後、尚之助は日新館所師範方として砲術等を教授した。

元治元年(1864)7月19日、前年に会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派に京都を追放された長州藩勢が松平容保らの排除を目的に挙兵した禁門の変(蛤御門の変)で覚馬は砲兵隊を率いる。この時の戦いで視力が低下したとも。
10月に京都詰と若松詰の会津藩家老の間で尚之助の上京について意見が交わされる(会津藩軍奉行・林権助より上洛要請)ことから、この頃には尚之助は会津藩士になっていたと思われる。

慶応元年(1865)に尚之助は21歳の八重と結婚したともいわれる。

 
●会津戦争、尚之助は大砲隊の指揮者として戦う
尚之助は「大砲方頭取」として十三人扶持の俸禄を受けており[1]、明治元年(1868)会津戦争に参戦。
家老萱野権兵衛(かやのごんのひょうえ。長修、ながはる)配下の会津軍では女子の参戦を許さなかったが、薙刀奮戦隊(後年「娘子(じょうし)軍」と呼ばれる)を結成した婦人達は押し切って、彼女らの慕う照姫(てるひめ。松平容保の義姉)の元へ集おうとし、8月25日には城下に迫る長州藩との攻防に身を投じた。柳橋の戦いで中野竹子(なかのたけこ)討死。

断髪し白虎隊(八重は臨家に住む伊東悌次郎らに鉄炮の撃ち方指南をしている)と同じ黒の洋装で大小の刀を差しゲベール銃を携えて男装した八重は鳥羽・伏見の戦いで死亡で佐川官兵衛率いる別撰組と配下で戦死した弟の三郎としての心持ちで鶴ヶ城籠城戦に参加する。
八重は8月23日に城内に入り屋敷から持参した新式7連発スペンサー銃で土佐藩兵や加勢の薩摩藩士らを城内から射撃、大砲も撃ちかかった。
8月25日に新政府軍に城の東の小田山を占拠され佐賀藩の天守砲撃に悩まされるが、8月27日尚之助らは四斤山砲を豊岡神社に設置して小田山を砲撃し猛烈な反撃を加えた。この時八重も尚之助を手伝ったという。

9月13日夜、尚之助は城東外郭の敵を二時間にわたり砲撃。
9月14日に鶴ヶ城総攻撃が行われるさ中、尚之助が「我軍は天守閣を的に掲げるのに彼等の弾は命中するに能はず、余一発を小田山の砲塁に加へ必ず命中せしむべし」と弟子の高木盛之輔に言い、放った砲弾は敵塁を貫き丹波家の墓石塔を損傷、第二発復要所に命中し敵塁を鎮めたという。[c]
9月17日、城外の一ノ堰の戦いで会津玄武隊(50歳以上の隊)として八重の父の権八が戦死。厳しい籠城戦が続き9月22日午前10時、大手前に降伏の白旗が掲げられ開城。

 
●会津開城後の謹慎
会津開城後に尚之助ら城外藩士は謹慎で塩川村、後に他の謹慎者1720人と共に東京へ向かう。[d]
一方八重は、婦人子供60歳以上の老人は御構い無し(立退き自由)にも関わらず、弟の山本三郎を名乗って城内藩士らと共に猪苗代へ謹慎に向かった。

※覚馬は在京で戦い、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦いで薩摩藩に捕らわれ(失明同然でも活動を続けた覚馬の名は認められており、薩長同盟以前の禁門の変で共に戦った西郷吉之助ら薩摩藩士の待遇は良かった)、明治2年(1869)釈放、翌年京都府庁に出仕、京都府顧問となり会津には戻らずに至る。
余談として在京中に覚馬が開いた洋学所の門下には会津戦争の折に会津に残った戦った新撰組隊士・斎藤一も居た。

 
●山本一家は尚之助の伝手で米沢、尚之助は旧会津藩士として斗南藩へ
※領地没収となっていた会津藩は、明治2年11月3日松平容保の嫡男の容大(かたはる。当時生後五か月)が家名存続を許され現青森県に斗南(となみ)藩を立藩。翌年、旧会津藩士の移住が許される。

明治3年(1870)閏7月、山本一家が、米沢城下の米沢藩士内藤新一郎(尚之助から砲術の師事を受けていた。四石扶持)宅に寄宿(現山形県米沢市城西)した際、「川嵜尚之助妻」と記された戸籍簿が残っている。
京に上った覚馬もおらず、弟の三郎は京で父の権八も会津で戦死しており、佐久、八重、うら(覚馬の妻)と次女の峰(みね)、佐久の伯母を伴う米沢移住である。

10月、東京で謹慎していた尚之助は斗南藩領の野辺地(のへじ)に移住。
※尚之助が一度京都へ行き、会津を経て田名部(たなぶ。斗南藩庁地)に渡った説もある[2]

覚馬の妻の山本うらも、この時覚馬を世話する小田時栄≪時枝、時惠・時恵。丹波郷士の小田勝太郎の妹で、明治4年覚馬との間に娘・久栄(久枝。徳富蘆花(健次郎)の小説「黒い眼と茶色の目」は健次郎自身と久栄(茶色の目と形容)の恋愛がモデルで、黒い眼の先生は新島襄)誕生≫もおり、京都に行かず覚馬と離別し、子の峰を八重に託し、斗南へ行く。
※時栄とも後に離縁。覚馬は離縁の元となる不始末を許すつもりだったが八重と峰が追いだしてしまったと語る。時栄の不祥事は小説中に、久栄の婿養子にする為に会津から迎えた同志社英学校で学ぶ青年との不倫(密通)で覚馬の身に覚えのない子供を孕んだと書かれているが、確証は無い。
※越後高田(現新潟県)で謹慎していた斎藤一(山口二郎から藤田五郎に改名)も斗南藩領の五戸に移住。その後は諸説あるが旧会津藩士篠田内臓の娘の篠田やそと結婚、明治7年に上京し旧会津藩士高木小十郎の娘の高木時尾(ときお)と再婚したともされる。

明治4年(1871)8月3日、覚馬の招きで八重は母の佐久と姪の峰と共に米沢から京都へ。
前月8月2日には尚之助に砲術を学んだ者たちによる「先生の家内」としての山本家送別会があった。[e]
※7月14日には廃藩置県で斗南藩は斗南県となり藩知事の松平容大も東京へ移住している。

 
●尚之助の函館渡航
斗南藩は表高は3万石だが実際は不毛の地であり更に新政府からの扶助米も廃され、窮乏した。
飢餓に苦しむ領民を見捨てられなかった尚之助は「開産頭取」(かいさんかしらどり)、米座省三は「斗南藩商法懸」として米の調達のため函館へ渡る。

明治3年(1870)10月27日函館着。尚之助と米座は大工町徳弥方に止宿。
翌閏10月(1870年10月23日)にデンマーク名誉領事である商人デュース(John Henry Duus)所有の広東米15万斤と引き換えに、斗南藩で収入予定の大豆2550石を翌年三月に渡す契約を結んだ。[f]
契約は尚之助と米座との連名・柴太一郎を保証人とし、運送費用など尚之助側の負担が多いものだった。

12月20日米手形を別の担保(米座が函館商人池田勝蔵に払うべき借金)として英国商人ブラキストンに差押えられ米を出荷でず、翌日尚之助はブラキストンの米手形返却を開拓使(蝦夷開拓の政府機関)へ嘆願するが、米座の行方不明(ブラキストン函館から逃がしたとされる)や英国領事の非協力対応で難航。
明治4年(1871)3月9日米手形が返却されるが、その間の相場変動等で食い違い、支払がデュースの意向に合わず、4月9日尚之助らがデュースに訴訟された。
※協力者の裏切については否定されているものもあるので省略

 
●尚之助は訴訟により東京へ
デュースは賠償は斗南藩が払うべき訴え、尚之助側も4月11日米手形不当差押えにより生じた損害はブラキストンの責任として提訴。
4月27日に辰野宗城(たつのむねよし。斗南藩権大属・会計係)が尚之助は藩政に関る者ではなく米取引の契約も藩に無関係と開拓使外務係へ上申。その後も藩の責任者は藩の賠償を否定した。
9月15日には尚之助と柴も鉱山事業のため(銕山興起)の函館行であり藩命でなく個人での取引であったと口述。

明治5年(1872)尚之助は斗南への影響を慮り罪を被って、デュースとの裁判の為に上京したという。取調べは司法省の東京裁判所・司法省裁判所で行われ、尚之助は契約は斗南の飢餓を見過ごせず、また藩命でないことを口述。
6月デュースはデンマーク公使を通して外務省に損害は藩が負担するものとして起訴、その後日本側が藩は取引に無関係と主張。

明治6年(1873)まで本石町四丁目(ほんごく。現日本橋本町)山田和三郎方寄宿の会津人、名越勝治のもとに寄宿。12月に家主が破産し離散。
その後浅草鳥越明神裏通の川村三吉が病気の尚之助を下宿させる。

※8月から山本覚馬と八重は小野組転籍事件で拘留された槇村正直(京都府大参事)の開放を求め上京し四か月滞在している。この折に八重が鳥越の尚之助と会った逸話があるが、その頃尚之助は浅草鳥越移住の記録はない。

明治7年(1872)ブラキストンの裁判の為3月18日収監中の米座が函館送りとなり、28日に尚之助も請書の提出のため官費・監視人付きの函行きが決まる。4月18日に尚之助の知らぬ間に知人の川上啓蔵が預かり人とされ呼出される。19日、川上と尚之助両者が病のため青森県士族の根津親徳が代理人として法務省に出頭。
5月12日尚之助は開拓使東京出張所へ、青森県の許可も得た自費での函館渡航を申し出た。差添人は本郷竹町の道具屋徳兵衛方に寄宿の会津人加藤保次郎、保証人に根津。
しかし尚之助は(根津によると)6月1日会津若松に到り7月17日付の手紙に脚気を患ったとあり、その後は旧斗南藩領の青森県二戸郡釜沢泊の折に大病を患い、東京へ戻った。

根津親徳(ちかのり。金次郎)は尚之助より14年下で、浅草今戸十一番地に住む永岡久茂(ひさしげ。敬次郎。田名部支庁長辞任後に評論新聞社を設立、明治9年の思案橋事件後に獄死)の書生。
八重の父権八は久茂の永岡家の分家の出であり、尚之助は八重の夫として、根津を通じて永岡の援けも有ったのかもしれない。

 
●尚之助の最期
明治8年(1875)2月5日に帰京した尚之助は、7日に下谷和泉橋通(現・神田和泉町)東京医学校の病院に入院。根津が尚之助の身元引受人を加藤から自分への変更を申し出る。

3月20日午後3時頃に入院先の東京医学校病院第五番で慢性肺炎症により死去。享年39。遺体は看病していた根津が近隣に埋葬したという。
デュースの追及は死後も続くが、尚之助に家族無しと皆は答えた。
※浅草区今戸町称福寺に葬られたともされるが、現在称福寺は移転しており、尚之助の墓は存在不明となっている。
※実家の出石(現兵庫県豊岡市)に一人東京で没した尚之助を偲び供養したと思われる墓石が過去に存在した記録がある。改名は川光院清嵜静友居士。[3]

※確証はないが尚之助は鳥越で子供相手の手習い師匠として生計を立て貧窮していた、旧米沢藩士小森沢長政の扶助を受けた等の旧藩士小川渉[a]談もある。鳥越では「この頃は金のなる子のつな切れて ぶらりと暮す鳥越の里」等、狂歌を残したという。

 

訴訟の追及が及ぶのを考えて選んだ最期か、史料に「子無し弔祭するものなし」とあり孤独な病没だった尚之助とは対照的に、背を患い立つことも困難になっていた盲目の覚馬は時に八重に背負われながら産業・教育等多方面で京都近代化に貢献し、八重は性格不一致にして円満となる新島襄(にいじまじょう)との結婚そして晩年まで婦人活動に励み、歴史舞台においては、明るい。

※八重との離婚を示す資料は無いが、尚之助が入院した明治8年2月には八重の書類上の記名が川崎八重でなく山本姓(山本屋ゑ)になっている

※この記事は参考資料整理・確認中の覚書です。後日別ページにまとめるかもしれません。無断転載はお止め下さい。
※[1]:『外様分限帳』によるが同書に覚馬が十九人扶持「大砲方頭取」とあり、『幕末会津藩往復文書』で「大砲方頭取御雇」十六人扶持とあるので(父権八から家督を継いでおらず御雇)、誤りとの指摘もある
[2]:『旧斗南藩帰農商人伊呂波寄』に「川崎尚之助 壱人 京都府」とある
[3]:あさくらゆう氏の調査による

※出典 a:小川渉『会津藩教育考』 b:西田長寿『大島貞益』『同志社談叢』 c:斉藤肆郎『会津籠城記中軍護衛隊』 d:『京都謹慎人別イロハ寄』 e:『鶴城叢書』内藤新一郎記述項 f:『開拓使公文録』

 
* * *
 

…慶応元年(1865)結婚とされていますが、会津戦前後に尚之助が郷里の命運や多くの犠牲に怯え落胆する山本一家の支えになろう(助手を務めた八重とは未婚だが見分や聞き語りで記録する者の目からは既に夫婦と思われていたかもしれない)と籍を入れたか、尚之助の伝手の米沢移住の都合で妻を名乗って登記したか。それとも斗南の者を救うために奔放する道を選んだ尚之助がリスクを負わせないよう秘かに離縁したか……覚馬の妻、うらや旧会津藩への気遣いも有ったのでは云々と、様々な可能性を想像してしまいます。

そしておまけ。記事登場人物の、大河ドラマ「八重の桜」でのキャスト(番組ガイド・公式サイトより。成長後、敬称略)

・山本八重:綾瀬はるか
・山本覚馬:西島秀俊(かくま。八重の兄)
・川崎尚之助:長谷川博己(元・但馬出石藩士、洋学者)

山本家
・山本権八:松重豊(八重の父)
・山本佐久:風吹ジュン(母)
・山本三郎:工藤阿須加(弟)
・山本うら:長谷川京子(覚馬の妻)
・山本みね:千葉理紗子(みね)

会津藩
・松平容保:綾野剛(会津松平家9代藩主)
照姫:稲森いずみ(容保の義姉)
萱野権兵衛(ごんべえ):柳沢慎吾(会津藩家老)
林権助:風間杜夫(会津藩大砲奉行)
佐川官兵衛:中村獅童(会津別撰組)

・伊東悌次郎(ていじろう):中島広稀(白虎隊士
・高木時尾:貫地谷しほり(八重の幼馴染)
中野竹子:黒木メイサ(中野平内の長女)

江戸幕府
・勝海舟:生瀬勝久(幕臣)

新撰組
斎藤一:降谷建志(新選組隊士)


小田時栄:谷村美月(覚馬の後妻。のちに離縁)

諸藩
・西郷吉之助:吉川晃司(薩摩藩士。会津と共に戦ってきたが薩長同盟で新政府側に)
佐久間象山:奥田瑛二(松代藩士。象山塾に覚馬が入門していた)
・新島襄:オダギリジョー(上州安中藩士、軍艦教授所生)

参考図書
・あさくらゆう『川崎尚之助と八重
・野口信一『会津えりすぐりの歴史
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史REAL八重と会津戦争
・『歴史読本2013年3月号→Kindle版 『歴史読本2012年9月号
・『会津人群像2012年22号
・阿達義雄『会津鶴ヶ城の女たち
・石光真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書
・青山霞村『山本覚馬伝
・徳富健次郎『黒い眼と茶色の目