投稿者「kazusa」のアーカイブ

大龍寺[1]山本家の菩提寺

大龍寺山門 大龍寺本堂

大龍寺(だいりゅうじ)山門と本堂

宝雲山大龍寺
社伝によると松本深志城(ふかし。長野県松本城)城主で礼法小笠原流の祖といわれる小笠原長時(おがさわらながとき)の菩提寺として天正11年(1583)に創建された桂山寺に始まり、寛永20年(1643)に会津藩祖の保科正之が最上(山形県)から会津へ移った際に帰依し、翌年現在の寺号となる。

 

山本家の墓所 山本家墓所案内板

▲新島八重の先祖6人が眠る山本家之墓所

八重の実家、山本家は八重の高祖父(曽祖父の父親)の時から大龍寺を菩提寺としていた。
八重は亡くなる前年の昭和6年(1931)にここに訪れ、山本家の墓を一カ所に合祀して墓標を建立。
墓標の表には八重直筆の「山本家之墓」、裏には「昭和六年九月合葬 山本権八女 京都住 新島八重子建之 八十七才」と刻まれている。

この時八重が詠んだ和歌2首が徳富蘇峰記念館(とくとみそほう。新島襄や山本覚馬、他各界著名人が徳富蘇峰に宛てた多くの書簡を展示。神奈川県)で見つかった。

山本家墓所の八重直筆墓標 墓参時の句

「たらちねの御墓のあとをとふことも今日かぎりとなくほととぎす」
「若松のわが故郷に来てみればさき立つものはなみだなりけり」

宝雲山大龍寺(会津七福神・布袋尊)
所在地:福島県会津若松市慶山2-7-23

 

大龍寺には小笠原長時夫妻と娘の墓や、山本覚馬が従った軍事奉行兼大砲隊長林権助安定(やすさだ)等、会津藩士族の墓が有ります。

山本覚馬・八重誕生の地と覚馬の少年時代

山本覚馬と八重の誕生地碑 山本家跡案内板

山本覚馬・新島八重誕生の地碑
平成2年5月30日に、生家の近く(実際の地とは少し離れています)の会津郷土史研究家・宮崎十三八氏の自宅前に建立された誕生碑には、八重の籠城戦の直筆の歌「明日の夜は何国の誰かながむらん なれし御城に残す月かげ」が彫られている。

 

覚馬の少年・青年時代
砲術師南・百五十石の山本家は鶴ヶ城(会津若松城)下郭内・米代四ノ丁に住んでいた。
文政11年(1828)正月11日に権八・佐久夫婦の長男、義衛──後の覚馬良晴(かくま よしはる)が生まれる。
覚馬は5歳の時には唐詩選の五言絶句を暗誦し、7、8歳の頃自宅裏の菜園から野菜が盗まれた時に足跡から犯人像を言い当てる鋭い観察眼を持った神童であったが、近所の子供と喧嘩もよくした。
毎日風呂に入りたいと早朝6時前に起床し稽古場へ行く前に一里半もある持山で薪を採り母を助けて掃除をするのが日課で、9歳の時に川で上手く独りで馬を洗った逸話もある。
9歳で一年早く藩校日新館に入り文武両道の才を現した。特に大内流の槍術が得意で馬術も好んでいた。
学問が進むと会津藩の軍制長沼流の兵要録を読み、軍制中で得意の槍術が占める位置に関心を抱いたという。
20歳を超える頃には「頭には総髪の大束髪を結い、月代は剃らず、ツンツルテンの袴を履き、木綿のブッサキ羽織を着て、腰には大刀造りの大剣を佩び、鉄扇を手にして街を闊歩していた様子は威風堂々として人を圧する趣があった」と伝えられ、八重も後に「兄は若い頃は二十二貫(82.5kg)程目方がありまして」と覚馬の立派な体躯を語っている。

八重は弘化2年(1854)11月3日に誕生。後に川崎尚之助もこの家に寄宿する。

山本家案内看板 山本家跡周辺

▲案内看板と、山本家・伊東家跡付近
山本家の東隣には八重が銃を教えた伊東悌次郎(ていじろう。白虎隊二番士中隊)の生家、裏手には八重の幼馴染ユキの住む日向(ひなた)家。

山本家周辺古地図詳細 山本家周辺古地図

▲生家跡と誕生地碑のある場所が比較できます

山本覚馬・八重誕生地碑
所在地:福島県会津若松市米代二丁目1-23(米代二丁目バス停下車徒歩2分)

参考図書
・青山霞村『山本覚馬伝
・好川之範『幕末のジャンヌ・ダルク 新島八重
・『歴史読本2013年07月号
・『近代日本に生きた会津の男たち』宮崎十三八「山本覚馬」

大河ドラマ館『八重と会津博』

鶴ヶ城の三の丸口、県立博物館の隣に大河ドラマ「八重の桜」の背景や世界観を体感できる
ハンサムウーマン八重と会津博 大河ドラマ館』があります。

八重の桜(綾瀬はるか) アームストロング砲

八重の桜サイン入りパネルアームストロング砲
記念撮影にどんどん撮って下さいとこのパネルをお勧めされたので掲載しても良いのかな?
ドラマ館の外には説明等は無いですが、会津を苦しめた(小田山から佐賀藩が砲撃をあびせた)アームストロング砲の複製が置かれています…

第1展示場は大河ドラマ情報と
八重の原風景・会津藩山本家ゾーン
大河ドラマ登場人物の衣装や撮影小道具、山本家全景の模型展示など展示

山本家セット
角場(射撃場)セットを再現。ドラマと同型のスペンサー銃を使った射撃体験が出来ます。
銃の照準は外されていて、弾ではなくモニターの的にセンサーを当てて撃つデジタル仕様ですが、様になる銃の持ち方や構え方が分かって面白かったです!
撮影向けというのもありますが火縄銃とは構え方が違いますね。銃床を肩にあてなければいけないので弓のつがえ方とも違いますが胸から下は弓道の応用でよさげ。

シアターコーナー
八重の桜メイキング映像等放映
…等で構成されています。

 

鶴ヶ城北出丸セット

北出丸再現セット

第2展示場はドラマセットゾーンが主体で、鶴ヶ城の籠城戦で大砲を設置した「北出丸」が再現されています。こちらは一部撮影可。
チケットやパンフレットに使われている会津若松城下絵図屏風もここに展示されています。

鶴ヶ城籠城戦の大砲模型 臼砲

▲複製大砲と弾丸
フランス型四斤山砲のレプリカかな。先に飯盛山で新政府軍の弥助砲の砲身を見ていたら、よりコンパクトに見えるかも。
臼砲は至近距離用。隣に砲弾も有ります。

他アンテナショップや絵付け体験のチャリティーブースも有り、八重の桜ファンには充実のスポットでした!

大河ドラマ館サイト:http://yae-sakura.jp/dramakan
所在地:福島県会津若松市城東町2番3号

 

大河ドラマ館パンフレット

まるとく会津(割引券)の引換特典は可愛いミニ缶バッチ。
ちなみに「ハンサムウーマン」は新島襄が、凛と生きる妻の八重を称した言葉です。

会津に行ってきました

鶴ヶ城 会津若松駅白虎隊士像2

鶴ヶ城
会津戦争・鶴ヶ城籠城戦

八重の桜・山本家関連
大河ドラマ館『八重と会津博』
山本覚馬・八重誕生の地と覚馬の少年時代
大龍寺[1]山本家の菩提寺
中野竹子殉節の地碑と柳橋

会津藩主・藩士関連
萱野権兵衛・郡長正宅跡と国老殉節碑
天寧寺[1]萱野権兵衛・郡長正の墓所
西郷頼母邸跡と四郎顕彰碑
善龍寺-西郷頼母一族墓所
飯盛山と白虎隊
佐川官兵衛顕彰碑
長命寺-戊辰戦争の弾痕(佐川官兵衛奮戦)
愛宕神社の松平容保公の像
会津藩主松平家御廟[1]
 └松平家御廟[2]照姫
会津藩主松平家の別荘「御薬園」
阿弥陀寺[1]伴百悦-会津悲願の埋葬
 └阿弥陀寺[2]戊辰戦争殉難者墳墓(萱野権兵衛の遥拝碑)
阿弥陀寺[3]新撰組斎藤一の墓所
大龍寺[2]林権助(安定)墓所
秋月悌次郎詩碑

資料館等
白虎隊記念館
白虎隊伝承史学館
骨董むかしや(会津新撰組記念館)
福島県立博物館
会津武家屋敷[1]復元西郷頼母邸武家屋敷[2]

他、記事制作中…

▽親記事「伝習隊と新撰組」の会津関連
清水屋旅館-土方歳三が宿泊
土方歳三が湯治した東山温泉
天寧寺[2]近藤勇の墓
旧滝沢本陣
新選組殉難地「如来堂」
興徳寺[1]秋月登之助墓所

戊辰戦争の戦蹟や八重の桜の観光スポットを巡ってきました!
会津滞在は一泊な上、自分の足での移動なので範囲は狭いですが、じっくり見て回れたので少しずつ記事を上げていきますね。

 

会津のマスコットキャラ 会津若松駅の駅舎 あいづライナー

・新島八重マスコットキャラクター「八重たん」、会津郷土の縁起物・玩具の赤べこと起き上がり小法師のゆるキャラ「あかべぇ」「起き上がり小法師」
・会津若松駅の駅舎と磐越西線「快速あいづライナー」ラッピング車両

日野と新撰組土方歳三[4]歳三の墓所石田寺

土方歳三資料館から用水路に沿って歩いていくと石田寺に辿り着きます。

石田寺

石田寺(せきでんじ)

石田寺は土方家の菩提寺で土方歳三の位牌を納めた高幡山金剛寺(高幡不動。位牌は本堂大日堂)の末寺で、土方家の墓所です。
こちらも歳三の墓参りに訪れる女性がちらほら。

 

土方歳三義豊之碑

土方歳三義豊之碑
兄喜六の子孫が建てた顕彰碑です。

 

土方歳三の墓

土方歳三墓所
歳三の戒名は「歳進院殿誠山義豊大居士」
彼が踏んだゆかりの地の土を骨壷に入れてこの墓に納めたそうです。
土方家の墓には家紋の丸に三つ巴が刻まれています。

 

・愛宕山地蔵院石田寺 多摩八十八ヶ所霊場第八十六番札所/日野七福神 福禄寿
所在地:東京都日野市石田1丁目1-10

 

石田寺の近くにとうかん森があります。
「稲荷」を音読、もしくはこの付近に住まう土方一族が十家余程あった「とうか」からとうかん森と呼ばれるようになったそうです。
森と言うには小規模ですが、ムクと榧(かや)の厳かな大樹がそびえその下に小さなお稲荷さんが佇んでいます。
江戸時代に土方一族の氏神として稲荷大明神が祭られ、この森の北東にあった土方歳三の生家は弘化3年(1846)の多摩川洪水の被害にあって現在の土方歳三資料館のある場所へ移築されたそうです。